伝記
ウィリアム・ラムゼーは、1852年10月2日にグラスゴーで生まれたスコットランド出身の化学者である。土木技師で測量士の父ウィリアムと母キャサリン・ロバートソンの間に生まれ、叔父に地質学者のサー・アンドルー・ラムゼーがいる。グラスゴー・アカデミーで学び、造船業者のもとで徒弟となったが、化学を学ぶことを選んで、1866年にグラスゴー大学に入学し、1869年に卒業した。その後、化学者トーマス・アンダーソンに師事して実地の訓練を受け、ドイツのテュービンゲン大学に留学して、ヴィルヘルム・ルドルフ・フィッティッヒに学んだ。そこでの博士論文のテーマは、トルイル酸とニトロトルイル酸についてだった。グラスゴーに戻ると、アンダーソンの助手として働いた。1879年にユニバーシティ・カレッジ・ブリストルの化学の教授となり、1881年に結婚した。同じ年に学長に就任したが、何とか時間をやりくりして、有機化学や気体の研究を続けた。
1887年、アレキサンダー・ウィリアムソンの後任として、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの化学の教授に就任した。ここで多くの発見を行った。1885年から1890年にかけて、窒素の酸化物に関する論文をいくつか発表しており、これがその後の業績につながった。1894年4月19日の夜、ラムゼーはレイリー卿の講演に参加した。1892年にレイリー卿は、空気から酸素を取り除いて得た窒素の密度が、化合物を分解して得られる窒素のそれより大きいと報告していた。これは、空気中に酸素と窒素以外のものが含まれることを暗示する。講演後に二人は話し合い、これを追究することにした。当時アンモニアの合成を研究していたラムゼーは、高温でマグネシウムと化合させて窒素を取り除くことで、空気中の不活性な重い気体を取り出すことに成功し、同年8月にレイリーに知らせた。これを、ギリシア語で「怠け者」を意味する言葉から、アルゴンと名づけ、1895年にレイリーと共に発表した。
さらに1895年、太陽のスペクトルの観測から存在が予測されていたヘリウムを、ウラン鉱に含まれる窒素の中に発見した。未発見の貴ガスを探すために、空気を液化するなどして、1898年にクリプトン、ネオン、キセノンを発見した。1900年にはジャムシェトジー・タタの招待でインドを訪れ、科学研究機関の設立計画を調べて助言し、その報告書は、のちのインド理科大学院の設立構想の基礎となった。1903年にはソディと、ウラン鉱中のヘリウムが、ウランのアルファ崩壊によるものであることを示した。1904年に、空気中の貴ガスの発見の功績で、ノーベル化学賞を受賞し、同じ年にレイリー卿が物理学賞を受けた。1910年にはラドンの特性を研究している。1905年には、彼の名声を利用した詐欺事件が起こり、ある会社が海水から金を抽出する技法を開発したとして、ラムゼーの名で資金を集めたが、金が生産されることはなかった。1911年から1912年まで、英国科学振興協会の会長を務めた。
妻マーガレットとの間に、娘と息子を1人ずつもうけた。死の直前までバッキンガムシャーのヘイゼルミアに住み、1916年7月23日、鼻腔癌のため、ハイウィカムで63歳で死去した。ヘイゼルミアの教会に埋葬された。ヘイゼルミアには、彼の名を冠した高校がある。
同じ年に亡くなった人物
- ワシーリー・スリコフ (1916年没)
- イリヤ・メチニコフ (1916年没)
- マリー・ブラックモン (1916年没)
- カール・シュヴァルツシルト (1916年没)
- エドゥアルト・シュトラウス1世 (1916年没)
同じ地域に関係する人物
- エドマンド・バーク (1797年没)
- エドマンド・ラッブラ (1986年没)
- ウィリアム・ヘンリー・スミス (1865年没)
- ウィリアム・ベンティンク (初代ポートランド伯) (1709年没)
- ベイジル・リデル=ハート (1970年没)