伝記
イリヤ・イリイチ・メチニコフは、1845年5月15日(ユリウス暦5月3日)に、当時ロシア帝国支配下にあったウクライナのハルキウ近郊の村で生まれ、1916年7月にパリで没した微生物学者、動物学者である。白血球の食作用を提唱し、免疫系の先駆的な研究を行ったことで知られる。父は帝国警備隊の将校で、ウクライナの草原地帯の地主、母エミリアはユダヤ人の出身で、5人きょうだいの末っ子であった。幼いころから博物学に強い関心をもち、弟や他の子供たちに講義をしていた。8歳のときにはすでに数か国語を操り、11歳のころからは自然科学に興味を示した。母に励まされ、ダーウィンの著作を読んだことが、自然についての科学的な考え方に強い影響を与えた。
1862年、17歳でハルキウ大学に入り、4年分の課程を2年で終えて、1864年に甲殻類の生殖に関する論文で卒業した。その後ドイツのゲッティンゲンなどで学び、ルドルフ・ロイカルトの研究室では、線虫の世代交替を最初に見いだした。1865年にはギーセンで吸虫類の細胞内消化を発見し、この研究は後の仕事に影響した。オデッサやメッシーナでは無脊椎動物の比較発生学を研究した。1886年に、ロシアのオデッサ大学にロシア初の細菌学研究所が設立されると、教授を務めた。パストゥールのワクチンによる狂犬病の研究を試みたが、地元の人々の理解が得られず辞任した。1887年にパリのパストゥール研究所の招きに応じて主任研究員となり、以後はパリで過ごした。
ミジンコやナマコの幼生の研究から、体内に侵入した異物を取り込んで消化する細胞があることを発見した。ミジンコに侵入して増殖し、ミジンコを殺してしまう酵母の仲間がいるが、侵入を受けたミジンコが死なない場合に、胞子が集まってきた細胞に取り込まれて消化されるのを見たのである。彼はこの細胞を食細胞と名づけ、その働きが生体防御のしくみを支えると考えた(食細胞学説)。当時の免疫は、血清中の抗体や補体のような液性因子によるものと考えられており、メチニコフの学説は、血球細胞による細胞性免疫の存在を支持した。液性免疫の役割を否定したため、従来の研究者と激しい論争になったと伝えられる。1908年、パウル・エールリヒとともにノーベル生理学・医学賞を受け、同年に王立協会からコプリ・メダルを受けた。
晩年は老化を研究し、大腸内の細菌が作り出す腐敗物質が老化の原因だとする自家中毒説を提唱した。1903年に老年学という語をつくり、乳酸菌を含む発酵乳を摂ることを勧めた。ブルガリア旅行中の見聞からヨーグルトが長寿に有用だと唱え、ヨーロッパにヨーグルトが広まるきっかけとなった。自身も大量に摂取したという。1916年に心不全でパリで亡くなった。長兄は、トルストイの小説『イワン・イリイチの死』のモデルとされる司法官であり、次兄レフ・メーチニコフは日本に亡命して東京外国語学校で教えた革命家であった。1869年にルドミラと結婚したが、彼女は1873年に結核で亡くなり、1875年にオルガ・ベロコピトヴァと再婚した。ロシア正教会で洗礼を受けながら、無神論者であった。
同じ年に亡くなった人物
- フランチェスコ・パオロ・トスティ (1916年没)
- ヨルゲン・ペダーセン・グラム (1916年没)
- ウィリアム・ラムゼー (1916年没)
- ジョン・モスビー (1916年没)
- イシ (1916年没)
同じ地域に関係する人物
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- Marie Boivin (1841年没)
- ジョルジュ・マルシェ (1997年没)
- ジョゼット・デイ (1978年没)
- ロベール・ド・ソルボン (1274年没)