伝記
エミール・アドルフ・ギュスターヴ・ヴェルハーレンは、1855年5月21日(3月21日とも記される)、ベルギー北部アントウェルペン州のシント・アマンスに生まれた19世紀後半から20世紀初頭の詩人、劇作家である。フランス詩壇で活躍し、ヴェルレーヌやランボーらとともに象徴派の一翼を担った。家はフランス語を話す中流家庭だったが、ヴェルハーレンはフラマン語(オランダ語)をしゃべっていたという。11歳のとき、ヘントの全寮制の修道学校に入学してフランス語を習得し、のちにフランス語で詩を書く基礎を作った。卒業後、ルーヴェン大学に進学して法学を修め、この時、学生新聞で活躍したのが文筆活動の始まりであった。これがきっかけで芸術活動に傾倒し、同じ志を持つ学生たちとともに、急進的な芸術雑誌『若きベルギー』の同人となった。
法学で博士号を得たのち、1881年から3年間は訓練生として過ごした。この時期、急進的な詩人や画家との交流を深めた。当時ベルギーの芸術界では、改革派の芸術家たちの同人「二十人会」の活動が震撼をもたらしていた。世間の賛否が分かれるなか、ヴェルハーレンは積極的に賛同し、『若きベルギー』誌や二十人会の機関誌『現代芸術』で彼らを評価する記事を書いて、注目を集めた。この頃から自身も詩を書くようになり、1883年に処女詩集『フランドル景物詩』を発表した。自然主義に基づくこの詩集は、時に挑発的で論争を招いたが、詩壇への登場には十分であった。直後から体調がすぐれず、1886年の第2詩集『修道士たち』も成功しなかったため、一時は詩人としての活動が危ぶまれたが、まもなく立ち直った。代表的な詩集に、『夜』『崩壊』(1888年)、『黒い炬火』(1890年)の「黒の三部作」があり、退廃的な方向性を確かなものにしている。
1891年8月、同じく芸術家のマルト・マサンと結婚し、この年に出された『わが途上に現れしもの』は結婚記念の詩集と呼ぶべき内容だった。1898年にはフランスに移り、パリ郊外のサン=クルーに転居して、創作は旺盛で、詩集のほか戯曲『夜明け』も書いた。この前後に『幻覚にとらわれた田園』(1893年)、『幻想の村々』『触手ある都市』(1895年)の「社会主義三部作」を書いたが、彼自身は社会主義者ではなかった。これらの詩集では、「都市」と「農村」を対峙させ、農村の血肉を食らって生きる都市と、荒廃する農村とをおどろおどろしく描き、自然主義から脱して独自の境地を開いた。これによって、象徴派が力を持っていた当時のフランス詩壇で名声を得た。一方で、人間の創造力と生命力を讃美し、『生活の相貌』(1899年)、『騒擾の力』(1902年)、『無量の壮麗』(1906年)、『至上律』(1910年)では、汎ヨーロッパ的な視点から人間讃美を行った。ヨーロッパ中を講演に飛び回った。ノーベル文学賞候補にも、1909年、1912年、1915年に挙がった。
1916年、第一次世界大戦で祖国がドイツ軍の侵攻を受けたことに悲憤し、詩集『戦争の赤い翼』で戦争の惨禍を描き、各地で講演して祖国を救おうとした。その最中の11月27日、ルーアンからパリへ戻る際に、駅のホームから誤って転落し、入線した列車にひかれて、61歳で亡くなった。妻に知らせを伝えたのはアンドレ・ジッドだったといわれる。翌年、遺作集『天上の炎』が出版された。ベルギーではメーテルリンクと並ぶ大文学者とされ、出身地には彼の原稿や遺品を集めた博物館がある。日本では上田敏が訳詩集『海潮音』で紹介した。
同じ年に亡くなった人物
- ウィリアム・ラムゼー (1916年没)
- チャールズ・ドーソン (1916年没)
- クリスティアン・ルエルセン (1916年没)
- フリードリヒ・ゲルンスハイム (1916年没)
- レオ・アントン・カール・デ・バル (1916年没)
同じ地域に関係する人物
- アルマン・サラクルー (1989年没)
- ベネディクト・モレル (1873年没)
- フェリックス・アルシメード・プーシェ (1872年没)
- Louis Bouilhet (1869年没)
- シャルル・アレクサンドル・ルスール (1846年没)