HISTORICAL PERSON · 1162年没

ウード2世 (ブルゴーニュ公)

ブルゴーニュ公。シャンパーニュ伯ティボー2世の娘マリーと結婚し3子をもうけ、後継のユーグ3世に公位を継承させた。

生涯
1162年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ウード2世は、1118年に生まれ、1162年に没した、ブルゴーニュ公(在位1143年から1162年)である。「平和公」と呼ばれたブルゴーニュ公ユーグ2世と、公妃マティルドの長男として生まれた。若いころにポルトガルへ赴き、従兄弟のアフォンソ・エンリケスとともに、イベリア半島のイスラム教徒と戦ったといわれる。彼の大叔父アンリは、カスティーリャ王アルフォンソ6世の庶出の娘テレサと結婚してポルトガル伯領の領主となった人物で、その子がアフォンソ・エンリケスである。アフォンソ・エンリケスは1139年に、ポルトガル最初の王となった。

1143年、父ユーグ2世が没し(1142年とする史料もある)、ウードはブルゴーニュ公位を継いだ。父はフランス王に忠実に従う方針をとっていたが、ウードはそれに従わなかったようである。ルイ7世が家臣との戦いを起こしても支持せず、1147年から1149年の十字軍にも従わなかったが、多くの家臣は王に従った。ウードは、シャンパーニュ伯ティボー4世とトロワ伯領をめぐって争い、またラングル司教との争いでは、ルイ7世が司教の側に立った。

1145年、ウードは、ブロワ伯でシャンパーニュ伯のティボー4世の長女マリー・ド・ブロワと結婚した。マリーは1128年に生まれた。2人のあいだには、1146年にアリックスが、1148年にユーグ3世が、それにマオーが生まれた。ユーグ3世は父の跡を継いでブルゴーニュ公となり、二度結婚して、最初の妻はアリックス・ド・ロレーヌ、二度目の妻はベアトリス・ダルボンであった。マオーはオーヴェルニュ伯ロベール4世と結婚し、この縁組はブルゴーニュ公家とオーヴェルニュ伯家の接近を示した。

ウードは、祖父や高祖父と同じく、略奪を働く領主でもあり、教会の団体に対しても略奪を行ったため、1150年10月24日に教皇エウゲニウス3世が手紙で叱責した。しかしウードは、シトー、フォントネー、カンシーなどの修道院に数多く寄進して埋め合わせをし、しばしば「水が火を消すように、施しは罪を消す」という言葉を用いた。このころ公領は平和と繁栄の時代にあったとされる。1160年、ルイ7世が10月にマリーの妹アデル・ド・シャンパーニュと結婚したので、ウードは王の義兄弟となった。ウードの紋章は、金と青の斜め縞に赤の縁取りで、ブルゴーニュ公で初めてこれを用い、のちに公国の紋章となったらしい。

ウードは1162年に、オータン司教であった弟アンリから破門され、同じ年に没した。没日は6月27日とも9月27日ともされ、モレームの死者名簿やディジョンの年代記は9月とする。罪をあがなうために聖地へ巡礼に出て、その旅の途中で死んだともいわれるが、遺体はシトー修道院に、父や祖父のそばに葬られたとも伝えられる。公位は唯一の息子ユーグ3世が継ぎ、数年間は母マリーの後見のもとで統治した。1164年には姉のアリックスが、ブルボン領主アルシャンボー7世の息子アルシャンボーと結婚した。母マリーは1165年に修道院に入り、1174年にフォントヴロー修道院の院長となり、1190年ごろにそこで没した。

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