伝記
マルクス・コルネリウス・ケテグスは、紀元前3世紀後期から紀元前2世紀前半の共和政ローマの政治家・軍人である。紀元前209年に監察官、紀元前204年に執政官を務め、紀元前196年に没した。
出身は貴族(パトリキ)のコルネリウス氏族で、ローマで最も強力で、多くの分家を持つ一族だった。ケテグスの家名を持つ人物として記録に現れる最初の人物であり、同世代には紀元前197年の執政官ガイウス・コルネリウス・ケテグスがいる。父も祖父もマルクスという名で、ガイウスの祖父もマルクスであることから、現代の研究者は二人をいとこ同士と考えている。若いころには神官(フラーメン)を務めたが、職務違反で解任されたことが知られている。プルタルコスは生贄の動物を正しい手順で扱わなかったためと伝え、ウァレリウス・マクシムスは、外のことに関心を持ちすぎたために神々の祭壇が破壊されてしまったと述べる。これは紀元前223年ごろのこととされる。
紀元前213年、同族のルキウス・コルネリウス・レントゥルス・カウディヌスの死去に伴って神祇官に選ばれ、同じ年に上級按察官にもなった。同僚は、後のアフリカヌスことプブリウス・コルネリウス・スキピオである。この年の按察官は、当時としては贅沢な競技会を催し、オリーブオイルを配ったことが知られている。紀元前211年には法務官となり、元老院はまずアプリアに、続いてシキリア(シチリア)に送った。シキリアではマルケッルスがシュラクサイを陥落させるなど勝利を重ねていたが、状況は厳しかった。カルタゴが別の部隊を上陸させて幾つかの都市を奪い、その軽騎兵やヌミディア騎兵が島を荒らし、ローマ軍の兵士は戦うのを嫌がっていた。ケテグスは軍の秩序を取り戻し、奪われた都市を取り返した。のちマルケッルスの行いをめぐって、多くのギリシア系シキリア人をローマに送り、権力の乱用を元老院に訴えさせたが、審理の結果、マルケッルスは無罪とされた。
紀元前209年、ケテグスはプブリウス・センプロニウス・トゥディタヌスとともに監察官に就いた。二人とも執政官の経験がなかったことは異例である。元老院筆頭を選ぶ際、ケテグスはティトゥス・マンリウス・トルクァトゥスを、トゥディタヌスはファビウス・マクシムスを推して意見が分かれたが、ケテグスが譲歩した。両者はカンナエの戦い後の振る舞いを理由に8名の元老院議員を除名し、イタリアにいたカンナエの騎兵の馬も没収した。このとき数えられたローマの成年男子は137,108人だった。
紀元前204年には、再びトゥディタヌスとともに執政官となり、スキピオの部隊がロクリで行った略奪を調べる調査団の派遣を元老院に提案した。担当はエトルリアで、ハンニバルの弟マゴ・バルカがリグリアに上陸していたため、エトルリア人がマゴに加担しないよう防ぐのが任務だった。マゴに同情した多くの現地貴族が処刑され、逃亡者の財産は没収されて、エトルリアはローマの支配下に留まった。翌紀元前203年は前執政官として法務官クインティリウス・ウァルスとガリア・キサルピナを担当し、インスブリアでマゴと戦った。ローマ歩兵がカルタゴの戦象部隊のために大損害を受けると、予備に置いていた自らの兵を投入して戦線を立て直した。マゴは重傷を負い、カルタゴ兵は逃走したが、決定的な勝利ではなかった。その後マゴはカルタゴへの帰還を命じられ、イタリアの脅威は去った。紀元前196年、ローマで流行した疫病のなかで世を去った。弁論でも名高く、キケロはローマ最初の雄弁家と呼び、詩人エンニウスは「説得の精髄」と評した。
同じ年に亡くなった人物
- 韓信 (紀元前196年没)
同じ地域に関係する人物
- グレゴリウス5世 (ローマ教皇) (999年没)
- カルロ・ルスティケッリ (2004年没)
- フランツ・フォン・ヴェチェイ (1935年没)
- クルツィオ・マラパルテ (1957年没)
- フランチェスコ・マルキサーノ (2014年没)