伝記
ホセ・デ・ラ・クルス・ポルフィリオ・ディアス・モリは、1830年9月15日(洗礼の日。正確な誕生日は不明とされる)に、メキシコのオアハカで生まれた軍人であり、政治家で、第29代大統領である。ミステク・インディオの血を引く母とスペイン系の父のメスティーソで、7人の子の6番目であった。父は1833年にコレラで亡くなり、母が宿屋を営みながら多くの子を育てた。家計を助けるために靴作りを学び、一時は大工の徒弟にもなった。1845年に15歳で神学校に入り、聖職を志したが、のちに法学に転じ、後に大統領となるベニート・フアレスらに学んだ。1846年に米墨戦争が始まると軍に入ったが、実戦には参加しなかった。1854年のサンタ・アナ大統領に対する反乱に加わり、1855年にはナヤリット州の町長になった。
フランスのメキシコ出兵では、陸軍士官として数々の戦いで重要な勝利を収め、1862年のプエブラの戦いでは騎兵隊を指揮した。1863年にフランス軍がメキシコシティを占領して臨時政府を樹立した後も、メキシコ南部で抵抗活動を続けた。同年10月、フアレスから師団長に任命され、ゲリラ部隊を組織した。1867年4月にプエブラを占領し、その年の6月に、共和党軍のためにメキシコシティを解放した。しかし同年の大統領選挙でフアレスに敗れて軍を退役し、1871年の選挙にも出馬して敗れた。8月に武装反乱を起こしたが、失敗して逮捕された。1872年にフアレスが死去し、恩赦で釈放されてアメリカに亡命した。1876年にまた大統領選に出馬して敗れると、「大統領の再選禁止」を掲げた武装蜂起、トゥステペック計画で、レルド・デ・テハダを倒し、1876年11月に自ら大統領に就任した。
一期を務めた後は、腹心のマヌエル・ゴンサレスを大統領にし、自分は最高裁長官になった。ゴンサレスの任期は腐敗と汚職が横行し、任期が終わると、ディアスは再び大統領に就任した。以前掲げた「再選禁止」を反故にしたが、その再任は歓迎された。1887年には憲法を改正して、無期限の再選を可能にし、投票を操作して権力を維持した。1884年12月から1911年5月まで、途切れなく大統領の職にあった。実証主義的な進歩を確信し、「シエンティフィコス」と呼ばれる顧問団の「科学的」な近代化計画を採用した。鉄道網と電信網を整備し、国内の線路の総延長は10倍に増えた。国外からの投資を歓迎し、メキシコは大規模に外資を導入して、インフラ整備や銀行の設立、商業の活発化、工業や農牧業の拡大を通じて、経済発展を遂げた。
しかし、主要産業は外国資本の配下に置かれ、経済発展の恩恵に浴したのは一部の特権階級だけだった。農場主たちが土地を不法に拡張するのを認め、農民のほとんどは土地を失って、大農園の労働者になった。地方警察を使って農民を弾圧し、1907年の恐慌も重なって、ディアスへの不満が高まった。1910年の大統領選には、フランシスコ・マデロが反ディアス勢力を結集して立候補したが、選挙の直前に逮捕され、獄中のマデロへの票はわずか196票だった。釈放されてアメリカに亡命したマデロが、選挙結果は不正だとして武装蜂起を呼びかけ、各地で蜂起が起こり、メキシコ革命となった。1911年5月25日に大統領を辞任し、フランスへ亡命した。1915年7月2日に、パリで追放の身のまま死去し、モンパルナス墓地に埋葬された。
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