伝記
イーディス・ルイーザ・キャヴェルは、1865年12月4日に生まれ、1915年10月12日に没したイギリスの看護師である。第一次世界大戦中、両陣営の兵士を差別なく治療し、200人以上の連合国軍兵士がドイツ占領下のベルギーから脱出するのを助けたことで知られる。ドイツ軍に捕らえられて軍事法廷で死刑を宣告され、国際的な赦免の圧力にもかかわらず、銃殺された。
イングランドのノーリッチ近郊の村スウォーズデストンで、4人兄妹の長女として生まれた。父フレデリックは45年間そこの牧師を務めた。ノーリッチの女学校を卒業後、クリーブドンなどの寄宿学校に進んだ。のちに家庭教師として働き、1890年から1895年まではブリュッセルの家庭にも勤めた。その後、父が重い病気になって帰国し、介護に従事したことがきっかけとなって、看護職の道を選んだ。1895年12月からトゥーティングの熱病病院で看護師として働き、30歳の1896年9月に、王立ロンドン病院の看護婦長エヴァ・ラッケスのもとで見習いを始めた。1897年10月からメードストンの腸チフス流行に派遣され、その働きで腸チフス章を授与された。訓練後は、1898年10月から翌年12月まで、病院付属の個人看護の組織で、患者の自宅を訪ねて、がんや痛風、肺炎、虫垂炎などの看護にあたった。1901年にラッケスの推薦でセント・パンクラス救貧院病院の夜間監督となり、1903年にはショーディッチの病院の婦長補になった。
1907年、ベルギー王室の外科医で、ベルギー赤十字の創設者のアントワーヌ・ドパージュに招かれ、ブリュッセル南部イクセルに新設された看護学校の婦長に42歳でなった。最初は生徒が4人だけだったが、6年間で400人を送り出した。1910年には看護の専門誌を創刊し、1年のうちに三つの病院、24の学校、13の幼稚園で看護師を養成するまでになった。宗教施設による看護が医学の進歩に追いついていないと考えたドパージュと緊密に働き、同年には、サン=ジルの新しい世俗の病院の婦長を頼まれた。第一次世界大戦が勃発したとき、彼女はノーフォークで未亡人の母を訪ねていたが、ブリュッセルに戻り、診療所と看護学校は赤十字に接収された。
1914年11月、ドイツによるブリュッセル占領の後、イギリス兵をかくまい、中立国のオランダへ逃がす活動を始めた。負傷した英仏の兵士や、軍務年齢のベルギー人、フランス人の民間人は、ベリニー城のクロワ公爵のもとで隠れ、偽の身分証明書を与えられた。そこから案内人によってブリュッセルの彼女らの家に連れて行かれ、オランダ国境に着く資金と、フィリップ・バウクを通じて得た案内人を与えられた。これはドイツ軍法に違反した。ドイツ当局は、彼女の行動を疑うようになり、率直な物言いもそれを強めた。1915年8月6日に逮捕され、連合国兵をかくまったとして起訴された。その後、軍事法廷で反逆罪の有罪判決を受け、死刑を宣告され、10月12日に銃殺執行部隊によって射殺された。49歳であった。処刑の前夜に、「愛国心だけでは十分ではありません。私は誰に対しても一切恨みや憎しみは抱いていないのです」と語り、その言葉はロンドンのトラファルガー広場近くの記念碑に刻まれている。「助けを必要とする命がある限り、私は働き続ける」という言葉も知られる。聖公会の篤い信徒で、その信念に従って、助けを必要とするすべての人に手を差し伸べた。イングランド国教会は聖人暦の10月12日に彼女を記念している。
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