HISTORICAL PERSON · 1865年没

レオポルド1世 (ベルギー王)

ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公の三男で、初代ベルギー国王。1816年にイギリスのシャーロット王女と結婚したが死別。1831年に即位し、大国の間で独立と国内統一を保とうとした。

生涯
1865年没
死亡地
ベルギー王国(ブリュッセル / ラーケン)
出生地
ドイツ連邦共和国(コーブルク)
出典
世界地図
ベルギー王国(ブリュッセル)

伝記

レオポルド1世は、1790年12月16日にコーブルクのエーレンブルク城で、ザクセン=コーブルク=ザールフェルト公フランツ・フリードリヒの三男として生まれ、のちに初代ベルギー国王(在位1831年から1865年)となった。母はアウグステで、子供たちを各国の王族と結婚させてコーブルク家の勢力を広げることに力を注いだ。1795年、5歳でロシアの近衛連隊の大佐となり、7年後には少将になった。祖国がフランス軍に占領される中、1806年にパリへ行き、ナポレオンから副官にならないかと持ちかけられたが断り、兄たちに続いてナポレオン戦争に加わった。

1815年に陸軍元帥となり、ロシア皇帝アレクサンドル1世とともにロンドンを訪れた際、摂政王太子ジョージの一人娘シャーロット王女に見初められ、翌1816年5月2日に結婚した。王女は英国王位の推定相続人であったため、実質的には英国王室へ婿入りする形となった。しかしシャーロットは1817年12月5日に息子を死産した後、間もなく世を去った。レオポルドはその後もしばらく英国にとどまり、毎年5万ポンドの年金を受けて趣味に没頭した。1830年にはオスマン帝国から独立したギリシャの国王就任を打診されたが、断っている。1816年にはジョージ摂政王太子からガーター勲章も授与された。

1815年のウィーン会議でオランダとベルギーはネーデルラント連合王国となったが、国王ウィレム1世がオランダ語を重んじたため、フランス語を母語とする南部の人々などの反発を招いた。1830年のフランス7月革命の影響で不満が噴き出し、10月にベルギーが独立を宣言した。ロンドン会議で独立が承認されると、国王選びが問題となり、フランス系の王子案は英国の強い反対で退けられた。英国首相グレイ伯は長年の友人であるレオポルドを強く推した。1831年6月に会議が推挙し、国民議会も受け入れ、7月21日にブリュッセルで即位した。ウィレム1世の反発から十日戦争が起こったが、英仏に救援を求めて蘭軍を撤退させた。1839年にはオランダも独立を正式に承認し、永世中立が成立した。

ベルギー憲法は国王の権力を制限していたが、レオポルド1世は不満を抱き、非公式の「組閣担当者」を任命して政治に介入した。この慣例は現代にも続く。建国当初はフランス語が公用語とされたが、国王は常備軍のマニュアルに、フランス語を理解できない部下への寛容を求める文書を付け加え、1834年にはヘールでオランダ語教育の重要性を説いた。1830年代にはワロンとフランデレンを結ぶ鉄道網も整備した。自らを「老獪な外交官」と称したという。1832年8月9日にフランス国王ルイ・フィリップの娘ルイーズ=マリーと再婚し、3男1女を儲けた。1836年には、兄の次男アルブレヒト(アルバート)を姪のヴィクトリア王女に引き合わせ、二人は1839年に結婚して、レオポルドは若い女王夫妻のよき相談役となった。娘シャルロットはオーストリア大公マクシミリアンと1857年に結婚し、大公がメキシコ皇帝に就くと、レオポルドは仏英西の一致した支援を求めるよう助言した。1865年12月10日、ブリュッセルで崩御した。その知らせは翌年1月にメキシコ皇帝夫妻に届き、後ろ盾を失ったマクシミリアンは1867年に銃殺され、シャルロットも精神を病んだ。

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