伝記
藤原顕輔は、寛治4年(1090年)に生まれた平安時代後期の公家であり歌人である。藤原北家末茂流の六条藤家に属し、修理大夫の藤原顕季の三男で、母は藤原経平の娘である。六条と号し、六条藤家の2代にあたる。官位は正三位、左京大夫まで進んだ。小倉百人一首には、左京大夫顕輔として歌が採られている。
康和2年(1100年)、白河上皇の院判官代に任じられ、同じ年に蔵人となり、従五位下に叙せられて、以後は院の近臣として昇進した。康和4年(1102年)に正五位下、康和6年(1104年)に院の給分で越後守となり、天永2年(1111年)に加賀守に移り、永久2年(1114年)には中務権大輔を兼ねた。永久4年(1116年)の鳥羽殿北面歌合や六条宰相家歌合など、多くの歌会や歌合で活躍した。元永元年(1118年)に正四位下に昇り、保安3年(1122年)に院別当となった。父からは、六条藤家の象徴である人麻呂影供を受け継ぎ、父の死後は六条家を率いて、その歌学を伝えた。
大治2年(1127年)には、讒言によって白河院の勘気を受け、昇殿を止められた。白河院が崩御した翌年の大治5年(1130年)、関白藤原忠通の娘聖子が崇徳天皇の中宮に立てられると、中宮亮となって官界に復帰した。大治6年(1131年)に近江守となったが、保延元年(1135年)にその守を辞した。保延3年(1137年)に従三位に叙せられて公卿に列し、同5年(1139年)に左京大夫となった。永治元年(1141年)には皇太后宮亮となり、天養元年(1144年)6月には、崇徳上皇から勅撰集を撰ぶよう命じられた。久安2年(1146年)に備中権守となり、久安4年(1148年)に正三位に至った。久安6年(1150年)には亮を止め、久安百首にも歌を詠んだ。そして仁平元年(1151年)に『詞花和歌集』を完成させ、奏覧に供した。
久寿2年(1155年)5月6日に出家し、翌7日に薨去した。享年は66である。『金葉和歌集』の14首をはじめとして、勅撰和歌集に84首が入っており、家集には『左京大夫顕輔卿集』がある。百人一首の79番には「秋風にたなびく雲のたえ間よりもれいづる月の影のさやけさ」の歌が収められ、この歌は『新古今和歌集』秋の部にある。子には、藤原清輔、重家、季経、親輔、仁和寺阿闍梨の長覚らがおり、娘のひとりは近衛基実の妻、もうひとりは九条兼実の妻となった。顕昭は猶子であった。
同じ年に亡くなった人物
- シャルトルのティエリ (1155年)
- ダヴィト5世 (ジョージア王) (1155年)
- 秦檜 (1155年没)
- 李清照 (1155年没)
- シグル2世 (ノルウェー王) (1155年没)
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