伝記
金富軾は、1075年に生まれ、1151年に没した高麗の官僚、儒学者である。慶州金氏の出身で、この一族は新羅最後の王金傅の直系の子孫とされ、曽祖父が、高麗の初めに慶州と改められた旧新羅の都の長官となったことが本貫の由来である。高麗の太祖も慶州金氏から妃を迎え、一族は高麗初期の政治で重きをなした。父の金覲は官僚で、名高い詩人でもあった。宋へ使節として赴いた際、同行の使節朴寅亮と詩集を出し、宋の学者たちに深い印象を与えたという。兄に金富弼、金富佾(1071年から1132年)、弟に金富轍(1079年から1136年)がいる。父は金富軾が13歳ごろのときに亡くなり、母が息子たちを育てて教育を監督した。のちに睿宗は、息子たちが科挙に合格するのを助けた母の功績をたたえ、毎年の手当を与えた。
金富軾は1096年に科挙に合格し、安西の地方官に任じられ、のちに翰林院に選ばれた。1115年には諫官の職についた。1116年に睿宗が王の前で儒学を講じる経筵を設けると、金富軾は弟の金富轍とともに講義を行い、『書経』と『易経』を講じた。この経筵は、名将尹瓘の子で儒学者の尹彦頤との競い合いの場ともなり、尹彦頤は講義のなかで難しい問いを投げかけて、金富軾に恥をかかせ学識を貶めようとしたようである。1121年以後に起居注を務め、1122年には礼部侍郎に就いた。
1126年に有力な門閥貴族の李資謙の乱が起こり、国都の開京は荒れ果てた。これを見た西京(平壌)出身の僧妙清は、白寿翰らとともに、風水地理説を根拠に仁宗に西京への遷都を迫った。金富軾ら王党派は、儒教的な正統思想を掲げて遷都に強く反対した。遷都の望みを失った西京派は、1135年に西京で自立し、国号を「大為」、年号を「天開」として大規模な反乱を起こした。これが妙清の乱で、高麗を二分し、1年余りも激しい戦闘が続いた。金富軾は開京派の元帥として軍を率いて西京で戦い、翌年に乱を平定した。1136年から1142年までは、最高位の宰相の地位にあった。
1142年に官職を辞し、勅命を受けて正史『三国史記』の編纂にあたった。遅くとも1143年には編纂が始まっており、1145年12月には撰上されたことが確認される。当時すでに勅撰の『旧三国史』があったことが知られるが、なぜ改めて正史を撰ぶ必要があったのかは定説に至っていない。「『旧三国史』は本紀と列伝だけで志と表を備えず、正史の体裁を欠いていた」とする説や、「門閥貴族のあいだで新羅系の優位を確立するため、あえて新羅中心の史書を残そうとした」とする説などがある。編纂後には『仁宗実録』の撰述も行った。のちに楽浪郡開国侯を賜った。『三国史記』は、朝鮮に現存する最古の歴史書である。
編纂の姿勢への批判は、中国中心的に過ぎること、儒教的な立場を強調しすぎて『三国遺事』に比べ古い記述を切り捨てすぎること、新羅系門閥である金富軾自身の立場を高麗で優位にしようとする造作があること、の3点にまとめられることが多い。朝鮮側の原史料の保存状況や、当時の東アジアの学問の中心が中国にあったこと、高麗と中国の関係からみて、やむをえない面もあるといわれる。
同じ年に亡くなった人物
- ジョフロワ5世 (アンジュー伯) (1151年)
- アンティオキアのゲオルギウス (1151年)
- アデライザ・オブ・ルーヴァン (1151年没)
- シュジェール (1151年没)