伝記
シャルル・ペギーは、1873年1月7日にフランスのオルレアンで職人の家庭に生まれ、1914年9月5日にマルヌ会戦で戦死した詩人・劇作家・思想家である。ジャン・ジョレスやレオン・ブルムらとともに社会主義者として活躍し、ドレフュス事件では正義と真実を求める再審派として闘ったが、社会主義者の統一に向けた動きの教条主義や党派性、事件における政治的妥協を批判して、「真実を語る」ために『半月手帖』誌を創刊した。のちにカトリックに回心し、『ジャンヌ・ダルクの愛の神秘』『聖母マリアの綴織』、叙事詩『イヴ』などを発表した。オルレアンは、ジャンヌ・ダルクが1429年に包囲戦での勝利で解放した町で、幼いころからその歴史を聞かされて育ったペギーは、処女作の戯曲『ジャンヌ・ダルク』をはじめ、ジャンヌ像を描き続けた。父デジレは指物師だったが、普仏戦争に従軍して病に倒れ、回復しないまま、ペギーが生後10か月のときに死去した。以後は母と祖母に育てられた。二人は椅子の藁を詰め替える仕事で生計を立てた。
ペギーは洗礼を受け、カテキズムを中心とする宗教教育を受けたが、同時に公教育の無償化・義務化・非宗教化を定めた制度の下で、非宗教的な教育も受けた。1880年10月にオルレアン師範学校の附属小学校に入学した。教育の担い手はもはや聖職者ではなく共和派であり、黒い制服の若い教員は、共和国の理念を体現する存在となった。のちに彼らを「共和国の乳飲み子」「黒い軽騎士」と呼んだ。ペギーは勤労の精神を学び、学業にも熱心で、学長にリセ進学を勧められ、奨学金を得てオルレアンのリセに進んだ。1891年にバカロレアを取得し、高等師範学校の受験準備をしたが落第し、1年間の兵役を経て、1894年に3度目の試験に合格した。ベルクソンに師事し、生の哲学の影響を受けた。
休学してオルレアンに戻り、史実に忠実な戯曲『ジャンヌ・ダルク』を書いた。1896年にパリへ戻り、無二の友マルセル・ボードワンが死去すると、翌1897年に、その妹シャルロットと結婚した。ボードワン家は無神論の共和派、社会主義の左派知識人の一家だった。社会主義への傾倒は、ジャン・ジョレスの影響によるもので、1892年のカルモーの鉱山労働者のストライキを支持し、学内で募金を呼びかけた。1898年5月1日にソルボンヌ地区に社会主義の書店を創設した。ペギーはまだ学生で、友人の名義で設立し、妻の生家の支援を得ていたが、1年後に「新書店・出版社」と改称し、株式会社として再出発した。彼は大学教授資格の準備を進めていたが、出版の仕事に専念するため、退学した。
ドレフュス事件では、社会主義者たちはユダヤ人大尉ドレフュスを擁護し、再審を求める運動を展開した。しかし1899年に、社会主義者の間でミルランの入閣をめぐって対立が生じ、ペギーは入閣を支持しつつも、教条主義的な統一や政治的な党派性を厳しく批判した。同年12月の第1回社会主義者全国大会で、選挙の候補者擁立をめぐり、意見の対立した一市民が追い出されたとき、ペギーは彼を支持し、「欺瞞と新たな不正義にうんざりして」退場した。そして翌1900年に雑誌『半月手帖』を創刊し、「真実を語る。すべての真実、真実のみを語る」と書いた。これはリュシアン・エールやブルムら共同経営者との決裂でもあり、ペギーは同年10月28日に辞任した。ドレフュスは1899年9月に特赦で出獄し、有罪判決が破棄されたのは1906年7月12日であった。ペギーは、1905年の政教分離法にも批判的だった。
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