HISTORICAL PERSON · 1914年没

アラン=フルニエ

フランスの小説家・詩人。生前に刊行された唯一の作品『グラン・モーヌ』で知られる。第一次世界大戦の1914年に亡くなった。

生涯
1914年没
死亡地
フランス共和国(ムーズ県 / サン=レミ=ラ=キャロンヌ)
出生地
フランス共和国(ラ・シャペル=ダンジヨン)
出典
世界地図
フランス共和国(ムーズ県)

伝記

アラン=フルニエは、本名をアンリ=アルバン・フルニエといい、1886年10月3日にフランス中部のシェール県の田舎町で生まれ、1914年9月22日に消息を絶った、フランスの小説家・詩人である。生前に刊行された唯一の作品『グラン・モーヌ』によって知られる。両親は小学校の教師で、3年後に妹イザベルが生まれた。1891年に父オーギュストが約100キロ南の田舎町の上級学校の校長に任命されると、一家はそこへ移り、フルニエは『グラン・モーヌ』の舞台のモデルともなったこの場所で8年間の少年時代を過ごした。1898年10月、12歳でパリのリセに入学した。成績は優秀だったが、大都会の孤独な生活にはなじめなかった。その後、海軍を志してブレストの高等中学に移ったが、受験を断念し、ブルージュのリセに移ってバカロレアに合格した。ここは、のちにアラン=フルニエの名が冠せられる学校である。

1903年10月、高等師範学校の受験準備のため、パリ南郊のラカナル寄宿学校に移った。ここで生涯の友、ジャック・リヴィエールと知り合い、リヴィエールはのちに妹イザベルと結婚した。1905年6月1日、美術展の会場付近で、母親らしい老婦人と連れ立った少女を見そめ、後を追って、その家まで見届けた。6月30日、ミサに出かける彼女を見かけて、愛を告白した。この女性が、『グラン・モーヌ』のイヴォンヌ・ド・ガレーのモデルになった。しかし、二人の愛は発展しなかった。1905年7月から2か月半ほど、ロンドンで英国の壁紙製造会社で働き、商業通信文を翻訳する仕事をした。1906年には高等師範学校を受験して不合格となり、1907年7月に再度失敗した翌日、あの少女の家を訪ねると、彼女が結婚したことを門番から教えられた。

進学を諦め、1907年12月に『ラ・グランド・ルヴュ』誌にエッセーを発表した。1908年に2年間の兵役義務で入隊し、竜騎兵の厳しさに耐えられず、歩兵隊に移ってもらい、見習士官としてラヴァルで研修した。この間に、のち『奇蹟』としてまとめられる詩や散文を書いた。1910年2月、セーヌ河岸で若い婦人帽子店主ジャンヌ・ブリュノーと出会った。『グラン・モーヌ』のお針娘ヴァランティーヌ・ブロンドーのモデルとなる女性で、関係は2年間続いて別れた。『新フランス評論』誌に書評を書き始め、新聞社にも勤めたが、1912年に退社した。シャルル・ペギーの紹介で、女優シモーヌの夫クロード・カジミール=ペリエの秘書になり、1913年6月からはシモーヌと愛人関係を結んだ。長年あたためてきた小説『グラン・モーヌ』を完成させ、1913年に『新フランス評論』誌に連載し、12月に書籍として刊行した。ゴンクール賞の有力候補に挙げられたが受賞しなかった。

1914年に、第二作の未完の小説『コロンブ・ブランシェ』に着手したが、第一次世界大戦の勃発により、8月1日に召集されて中断した。通訳として後方勤務の可能性もあったが、「仲間と共に戦いたい」と拒否した。陸軍中尉としてヴェルダン付近でドイツ軍との戦闘を指揮し、9月22日、21人の連隊兵とともに消息不明となった。死後、リヴィエールによって、未発表の詩や草稿などが、1924年に『奇蹟』としてまとめられた。1991年に、21名の戦友の遺体とともにドイツ軍の共同墓穴で発見されて本人と判定され、1992年11月に陸軍墓地に埋葬された。27歳であった。『グラン・モーヌ』は、フランスで「刊行以来、最も広く読まれ、最もよく売れた小説の一つ」とも言われる。

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