HISTORICAL PERSON · 1914年没

チャールズ・サンダース・パース

プラグマティズムの創始者として知られるアメリカの哲学者・論理学者。米国沿岸測量局に約30年勤め、メートルを光の波長で定義した最初の人。論理学を記号論の一分野とみなし、生前はおおむね無視され続けた。

生涯
1914年没
死亡地
アメリカ合衆国(ペンシルベニア州 / ミルフォード)
出生地
アメリカ合衆国(ケンブリッジ)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ペンシルベニア州)

伝記

チャールズ・サンダース・パースは、1839年9月10日にマサチューセッツ州ケンブリッジで生まれ、1914年4月19日に没したアメリカ合衆国の哲学者・論理学者・数学者・科学者で、プラグマティズムの創始者として知られる。化学者としての教育を受け、米国沿岸測量局に約30年間、科学者として雇われていた。「アメリカの哲学者たちの中で最も独創的かつ多才であり、アメリカのもっとも偉大な論理学者」ともいわれる。存命中はおおむね無視され続け、第二次世界大戦後まで二次文献はわずかしかなかった。膨大な遺稿の全ては今も公表されていない。自分をまず論理学者とみなし、さらに論理学を記号論の一分野と考えた。清教徒の移民ジョン・パースの子孫で、当時アメリカ最大の数学者と見なされたハーバード大学数学教授ベンジャミン・パースの次男として生まれた。早くから父に才能を見いだされ、特別の教育を受けた。8歳で化学者、10歳で数学者となり、12歳のときには論理学の要項を教えられて完全に理解したという。1862年と1863年に、ハーバード大学から抜群の成績で学位を授与された。

1859年に米国沿岸測量局に就職したのを皮切りに、1891年まで断続的に測量の仕事を続けた。1880年に父が亡くなるまで、影響力のある父の保護を受け、この雇用のおかげで南北戦争の兵役を免れたが、ボストンのエリートであるパース家が南部に同情していたため、本人にはばつの悪いことだった。測量局では主に測地学と重力測定に取り組み、振り子の利用法を改良した。測量局は彼をヨーロッパに5回派遣し、1871年の最初の渡欧は、日食を観測するグループの一員としてだった。1869年から1872年までは、ハーバード大学天文台の助手として、星の明るさと銀河の形についての研究を行った。1876年に全米科学アカデミーの会員に選ばれ、1878年にはメートルを光の特定の波長の非常に多くの数として定義した最初の人となった。

1867年のアメリカ芸術科学アカデミーでは、ブールが発表した『論理の数学的分析』の重要性を指摘して、その体系を改良した。学会が注目しなかったので中断されたが、パースの記号論理学の仕事は、シュレーダーの講義に引き継がれ、さらにラッセルとホワイトヘッドの『数学原理』に結実した。1879年、新設のジョンズ・ホプキンス大学の論理学の講師に任命された。これがパースの得た唯一の大学での役職となった。サイモン・ニューカムが秘密に表明した反対によって、大学での職や助成金を得ようとする努力はことごとく台無しにされたといわれる。最初の妻ハリエット・メルシナ・フェイは1875年に彼と別れ、離婚は1883年になって成立し、そのあとジュリエットと結婚した。その年、ニューカムは大学の理事に、パースが結婚していない女性と暮らし旅行していたと指摘した。このスキャンダルの結果、彼は解任され、以後ほかの大学での就職をいくつも試みたが、すべて失敗した。

1891年に沿岸測量局を辞任し、1887年にペンシルベニア州ミルフォードに土地を買って大きな家を建て、「アリスベー」と名づけて、残りの生涯を過ごした。しかし暮らしは窮乏し、最後の20年の多くを冬は暖房なしで過ごし、地元のパン屋が寄付してくれた古いパンを食べた。新しい紙が買えず、古い原稿の裏に書いた。辞書や百科事典の項目や、『ネイション』誌の新刊書評などの執筆で生計を立てた。旧友ウィリアム・ジェームズが、ハーバード大学周辺で連続講演を企画するなど、この困難な時期にパースを助けた。

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