HISTORICAL PERSON · 1914年没

ゲオルク・トラークル

オーストリアの詩人。凝縮された表現と色彩感覚で世界苦をうたい、ドイツ表現主義最大の詩人とも評される夭折の天才。

生涯
1914年没
死亡地
ポーランド共和国(マウォポルスカ県 / クラクフ)
出生地
オーストリア共和国(ザルツブルク)
出典
世界地図
ポーランド共和国(マウォポルスカ県)

伝記

ゲオルク・トラークルは、1887年2月3日にオーストリアのザルツブルクで生まれ、1914年11月3日にクラクフで没した詩人である。第一次世界大戦の前夜に、凝縮された表現と、象徴主義にも通じる色彩感覚で、世界苦をうたった。ドイツ表現主義の最大の詩人とも評される夭折の天才である。生まれてから18歳になるまでをザルツブルクで過ごした。父トビアスは、ハンガリー系の裕福な鉄鋼業者で、母マリアはチェコ系で、芸術と音楽に深い関心を持ち、家庭生活よりも古美術の蒐集に熱心な主婦だった。トラークルはこの母からピアノを教わり、ショパンやリスト、ワーグナーの音楽を好んだ。父はプロテスタント、母はカトリックで、七人の子のうち、のちに特別の関わりをもつことになるのが妹マルガレーテである。

カトリックの小学校に通ったが、宗教の授業だけはプロテスタント系の小学校で補習を受けた。1897年にザルツブルクのギムナジウムに入り、ラテン語、ギリシア語、数学を学んだ。級友たちと文学サークル「ミネルヴァ」をつくり、入学前から傾倒していたボードレールら象徴派の詩人のほか、ドストエフスキー、ニーチェ、ヘルダーリン、ホフマンスタールなどの影響を受けて、1904年ごろから詩を書き始めた。同じころ麻薬に耽溺した影響か、成績不振により、1905年に高校を中途退学した。その後は薬剤師になろうと決意し、3年間の実習期間を過ごした。戯曲の執筆も試みたが、2つの短い戯曲の上演は失敗に終わり、失意から麻薬への耽溺はますます深くなった。1908年にウィーン大学の薬学科に入学し、のちに彼の仕事を援助する芸術家やボヘミアンたちと親交を結んだ。ランボーの詩集に衝撃を受けたのもこのころである。1910年、父の死とほぼ同じ時期に、薬剤師の資格試験に合格した。

その後、軍隊に志願して1年間の兵役を務めた。退役後の1912年に、画家オスカー・ココシュカや批評家カール・クラウス、雑誌『ブレンナー』の編集者ルートヴィヒ・フォン・フィッカーと知り合った。特にフィッカーは支援者となり、定期的に彼の詩を『ブレンナー』に載せた。公刊された詩のほとんどは、フィッカーと知り合ってから亡くなるまでのわずか2年間に書かれた。生前唯一の作品集『詩集』は、フィッカーが骨を折って、1913年にウィーンのクルト・ヴォルフ書店から出版された。第2詩集『夢の中のゼバスティアン』も準備が整ったが、大戦の勃発で刊行が遅れ、完成した本を見ることはできなかった。またこのころ、正体不明の大富豪から、フィッカーを通じて匿名の寄付金2万クローネを送られた。公務員だった当時の彼の年収は600クローネだったという。この大富豪は、哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインだった。

大戦が始まると、救いのない現実から逃れようと志願して再入隊し、ガリツィアで衛生兵見習いとして従軍した。ロシア軍との戦闘で負傷した100人近い兵士を、薬もないまま看護する任務に就き、重傷者のうめき声が満ちる室内や、スパイ容疑で絞首刑となって木々に吊るされた敵兵の惨状に耐えきれず、ピストルで自殺を図った。同僚に助けられたが、クラクフの精神病棟に強制入院させられ、鬱病が悪化した。ウィトゲンシュタインは見舞いに向かったが、到着したのは、トラークルがコカインの過剰摂取で亡くなった3日後のことであった。ハイデッガーやリルケが彼を高く評価し、ヴェーベルンは彼の詩による歌曲を残した。妹マルガレーテは、1917年にピストル自殺を遂げている。

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