伝記
熙宗は、女真人の建てた金の第3代皇帝である。女真名はホラ、漢名は亶という。初代の太祖アクダの嫡子である繩果(宗峻)の長男で、母は女真貴族の娘の蒲察氏である。1119年2月28日に生まれたとされる。1123年に太祖が死ぬと、帝位は太祖の弟のウキマイ、すなわち太宗に移った。太祖以来の重臣である粘没喝(宗翰)と完顔希尹は、太宗を説いて、1132年にホラを皇太子に立てさせた。女真の勃極烈の制度は、皇帝が同じ世代の男性の親族、ふつうは兄弟から跡継ぎを選ぶもので、太宗が兄の孫のホラを選んだのは例外だった。1135年に太宗が死ぬと、ホラが即位した。
熙宗は、養父の宗幹の影響で漢の文化を好み、それまでの女真式の部族制国家から脱して皇帝の独裁を確立しようと、王朝の漢化をはかった。漢風の官制を取り入れ、才能のある漢人を登用し、中央集権化も進め、華北の支配を強めた。1136年には宗幹、宗磐、宗翰に政治改革を命じて、三省の制をつくらせた。伝統の勃極烈の制度は廃止された。このため、太宗の長男の宗磐は帝位に就く望みを失って強く不満を持った。1137年には金に従う国だった斉を廃し、南宋との和平交渉を始めた。1138年には、妻の裴満氏が皇后に昇格し、悼平皇后と呼ばれた。同じ1138年から翌年にかけて、宗磐は権力を奪おうと反乱を試みたが、敗れて処刑された。その後は宗翰、宗幹、宗弼の3人が政治を支配し、皇帝はほとんど発言できなかった。1139年には、宋が金に臣従する条約が結ばれ、金は河南と陝西を宋に返した。
しかし1140年、熙宗は宋を討つと決め、宗弼に河南と陝西を取り戻させたが、1141年に岳飛と韓世忠の率いる宋軍に敗れ、再び和平を探ることになった。1141年の和議は、淮水を国境として分断を固定するもので、宋は金に臣下の礼をとり、毎年歳幣を支払う、金にきわめて有利な内容だった。
1143年に皇太子の済安が、翌1144年に魏王の道済が早く亡くなった。熙宗は悲しんで酒に溺れ、政務を顧みなくなり、乱暴で冷酷になって、手当たり次第に人を殺すようになった。犠牲者のなかには、チンギス・ハンの曽祖父の兄弟にあたるモンゴルの首長アンバガイもいた。皇帝の独裁を強めるため、女真人の重臣や王族の左遷と粛清を繰り返したともいう。1148年に宗弼が死ぬと、熙宗は政治に加わる機会を得たが、悼平皇后が政治に口を出して大きな力を持った。
皇統9年12月9日、西暦では1150年1月9日、熙宗は、従弟の迪古乃(のちの海陵王)が側近を仲間に引き入れて起こしたクーデターで殺された。寝殿係の大興国が鍵を開けたため、宮殿に忍び込んだ一味は寝室まで踏み込んだ。熙宗は佩刀で迎え撃とうとしたが、大興国に刀を移されており、武器がなかった。護衛の徒単阿里出虎も加わった一味に斬られ、最後は迪古乃にとどめを刺された。31歳だった。死後は海陵王に東昏王に格下げされて葬られたが、海陵王を廃した従弟の世宗が、1161年に閔宗の廟号と武霊皇帝の諡号を贈り、のち1187年に熙宗と改めた。妃には北宋の徽宗の娘たちをはじめ多くの女性がおり、5人の公主があった。
同じ年に亡くなった人物
- ハインリヒ=ベレンガル (1150年没)
- バースのアデラード (1150年代没)
- アーヘンのアルベルト (1150年(推定))
- ジェフリー・オブ・モンマス (1150年代没)
- ブリテンのトマ (1150年(推定))
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