HISTORICAL PERSON · 1913年没

メネリク2世

エチオピア皇帝。第一次エチオピア戦争でイタリアを破って独立を守り、アディスアベバを帝都とし、鉄道や郵便など近代化を進めた。

生涯
1913年没
死亡地
エチオピア連邦民主共和国(アディスアベバ)
出生地
エチオピア連邦民主共和国(Ankober)
出典
世界地図
エチオピア連邦民主共和国(アディスアベバ)

伝記

メネリク2世は、1844年8月にショア王国のアンコベルで生まれた、ショアの王で、のちのエチオピア帝国の皇帝(在位1889年3月から1913年12月)である。即位前の名はサーレ・マリアムといい、ショアの王ハイレ・マラコトの王子だった。祖父の王サーレ・セラシエは、母がハイレ・マラコトの母に仕える若い女性だったこの孫の誕生を喜び、伝説のメネリク1世にちなんでメネリクと名付け、輝かしい治世の中でエチオピア帝国が再建されると予言したという。はじめハイレ・マラコトは認知を拒んだが、祖母ベザビシュが間に入り、親族の会議で、父子の似ていることが明白だとして嫡子と認められた。子は父と同じ教育を受け、家庭教師のアト・ナデウは生涯メネリクに近い存在だった。

1855年10月、皇帝テオドロス2世とハイレ・マラコトの軍の間で戦いが起こった。父は息子を守るため、忠実な首長たちに命じてミンジャール高原に逃がしたが、テオドロス2世の軍は圧力を加え、1856年2月に首長ダルゲが降伏した。皇帝はショアのアムハラ人の地をエチオピア帝国に併合し、十二歳のメネリクは首長らとともに捕らえられ、マグダラの宮殿に連れて行かれた。捕虜になったが、王子にふさわしい礼遇を受け、かえってテオドロスに可愛がられ、このことが彼自身に大きな影響を与えた。1865年に、テオドロスの勢力が衰えるなかで脱出してショアに戻り、正統な王として迎えられた。

ショアでの半独立の統治者として、メネリクは1878年から1889年までヨーロッパとの外交によって権力の基盤を築き、近代的な武器と、スイス人技術者アルフレート・イルクらの技術的知識を得た。オロモ人やグラゲ人の住む南部の領土を征服し、象牙やコーヒー、金などの交易による収入で武器を購入した。1887年にはハラルを征服して主要な交易の中心とした。同年、皇后タイトゥのために作られたエチオピア高原の避暑地を帝都と定め、アディスアベバ(新しい花)と名付けた。1889年にヨハンネス4世がメテンマの戦いで死ぬと、皇帝に即位した。

1889年にイタリアとウッチャリ条約を結んだが、イタリア語版は保護国化を意味し、アムハラ語版は外交上の援助を任意で受けられるとするものだった。メネリクは1891年に条約を正式に拒否し、1895年にイタリアが侵攻した。メネリクは十万人を超える軍を動員して、1896年3月1日のアドワの戦いでイタリア軍を撃破した。これが第一次エチオピア戦争で、列強にエチオピアの独立を承認させ、アフリカ諸王国の中で唯一独立を保った事例として知られる。イギリス、フランス、イタリアとの条約で国境を定め、ベルギー、フランス、ロシアなど複数の列強の資本を導入して、特定の国への従属を避けながら近代化を進めた。メネリク学校では英仏伊の言語を教え、メネリク病院も建設した。フランス資本のジブチ・エチオピア鉄道の敷設を許可し、1901年にジブチからディレ・ダワまで開通した。1904年にはアビシニア銀行を設立し、郵便や電信、電話も整え、皇帝を補佐する内閣制度も創設した。

1906年に脳出血を起こし、以後は皇后タイトゥが実権を握った。1907年に皇孫のイヤス5世を後継者に定め、1913年12月12日に六十九歳で崩御した。国際的には、アフリカの抵抗の象徴として称えられた。一方、取り込まれた民族集団の批評家は、強制的な同化や土地の収用、文化の抑圧を非難し、これがのちの民族間の緊張につながったとされる。

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