HISTORICAL PERSON · 1144年没

ペトロニラ・ファン・サクセン

ホラント伯フロリス2世の妃。夫の死後は幼い息子ディルク6世の摂政として実権を握り、異父兄ロタール3世の即位も軍事的に支援した。

生涯
1144年没
死亡地
オランダ(南ホラント州 / Rijnsburg Abbey)
出生地
オランダ(フラールディング)
出典
世界地図
オランダ(南ホラント州)

伝記

ペトロニラ・ファン・サクセンは、1082年ごろ(1086年ともいわれる)に生まれ、ホラント伯フロリス2世の妃となった女性である。ペトロニーユ・ド・ロレーヌとも呼ばれる。ロレーヌ公ティエリー2世と、ヘートヴィヒ・フォン・フォルムバッハの娘であり、母ヘートヴィヒは最初にズップリンブルク伯ゲープハルトと結婚して、のちに皇帝となるロタール3世を産み、その死後にティエリー2世と再婚していた。ペトロニラは母方の祖母にちなんでゲルトルートと名づけられたが、フロリス2世に嫁いだ後にペトロニラと改名した。結婚の時期は1100年、1108年、1113年と伝えによって分かれる。

1121年にフロリス2世が亡くなると、ペトロニラは幼い息子ディルク6世の摂政となった。野心的で強権的な摂政として、剛腕をふるったと評される。1123年から1125年にかけては、異父兄のロタール3世に軍事援助を行い、皇帝ハインリヒ5世からの自立とドイツ王即位を後押しした。フランドル伯位をめぐっては、ディルク6世の獲得の試みを支援したが失敗に終わり、シャルル1世が伯位を継承した。

1129年にディルク6世が成人して、ペトロニラの摂政としての任期は終わった。しかし同時代のエグモントの年代記によれば、彼女は1133年まで事実上の摂政として実権を握っていたという。1129年以降、ディルク6世と弟フロリス・デ・ズウォルテが権力を争うと、ペトロニラは弟のフロリスを推したが、1131年に手を引いた。フロリスは1132年に、ユトレヒトで戦死したとされる。

1133年、ペトロニラはレインスブルク修道院を建てて宮廷から退き、ここで余生を過ごして、修道女になったともいわれる。1144年に没し、同じ修道院に葬られた。没日は3月23日とも5月23日ともいわれる。フロリス2世との間には、ディルク6世、フロリスのほか、ユトレヒトの聖マルティン教会の参事会員となったシモン、修道女となったエドヴィジュが生まれたとされる。子孫のアダは、13世紀にこの修道院の院長を務めた。いとこが修道院を売却したとき、アダは自分の私財で買い戻さなければならなかった。

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