伝記
ルートヴィヒ1世は、ルードヴィング家の初代テューリンゲン方伯である。1090年ごろに生まれたとされる。父はテューリンゲンの伯ルートヴィヒ(跳躍伯)、母はアーデルハイト・フォン・シュターデで、次男にあたる。一族の順では3代目のルートヴィヒだが、初めて方伯の称号を帯び、一族の領地を広げる出発点になったため、歴史の上では1世と呼ばれる。父が1123年に死んだのち、1130年までは、弟ハインリヒとともに受け継いだ領地を治めた。グーデンスベルク伯ギゾ4世の娘で、その相続人のヘートヴィヒを妻に迎えた。
1131年(1130年とも)、ルートヴィヒは、ローマ王ロタール3世から、テューリンゲン方伯位を与えられた。前任のヴィンツェンブルク家のヘルマン2世は、1129年に方伯と記されていたが、自分の家臣を殺した罪で、すべての所領と封土を失う判決を受けていた。ルートヴィヒはロタールのお気に入りで、この近しい関係のおかげで、諸侯に近い高い地位へ昇った。ロタールが1133年に皇帝として戴冠してからも、関係は続いた。
1137年、グーデンスベルク伯の家が絶え、ギゾ5世が世を去った。ルートヴィヒは、妻ヘートヴィヒを通じて、ギゾ家の広大な遺領を受け継いだ。そこには、マールブルクの北のヴェッターを含むギゾ家の領地や、マールブルクの南にあるクニグンデのビルシュタイン領、ヘルスフェルトの領地が含まれていた。1121年に死んだヴェルナー伯のヘッセンの所領は、ギゾ4世とクニグンデが相続していたが、フリッツラー大聖堂、ハズンゲン修道院、ブライテナウなどの代官職を含むこのマーデン・グーデンスベルク伯領も、ルートヴィヒが受け継いだ。ルートヴィヒは、この年からヘッセン・グーデンスベルク伯を兼ね、フルダ修道院から封土を受ける家臣のなかでも筆頭の地位を得た。ヘートヴィヒの母クニグンデ・フォン・ビルシュタインは、ルートヴィヒの弟ハインリヒ・ラスペ1世と結婚していた。こうして、テューリンゲンとヘッセンは、100年以上にわたってひとつの家系のもとに統合された。
同じ1137年にロタール3世が死ぬと、ルートヴィヒはホーエンシュタウフェン家を支持するようになった。ホーエンシュタウフェン家とヴェルフ家の覇権をめぐる争いが始まっていた。1139年の夏、情勢がコンラート3世に有利に傾き、ハインリヒ尊大公に不利になると、ルートヴィヒは国王コンラートの陣営に加わった。ヴェルフ家が、バイエルンとザクセンを併せた強大な勢力になれば、間にあるテューリンゲンの方伯は押しつぶされかねなかった。
ルートヴィヒは1140年1月12日に亡くなり、一族が建てたラインハルツブルン修道院に葬られた。息子の後見は国王に託したという。ヘートヴィヒとの間の子には、方伯となったルートヴィヒ2世(1128年-1172年)、グーデンスベルク伯ハインリヒ・ラスペ2世、タムスブリュック伯ルートヴィヒ、ボヘミア王ヴラジスラフ2世の妃となったユーディト(ユッタ)がいる。ユーディトの結婚は1153年とも1155年ともいう。ほかに、ケーニヒグレーツ公ウダルリヒ2世の妻となったツェツィーリエ、ヴェルベン伯ディートリヒの妻となったマティルデ(メヒティルト)、アイゼナハの聖ニコラウス女子修道院長となったアーデルハイトがいる。
同じ年に亡くなった人物
- ディエゴ・ヘルミレス (1140年)
- ユースフ・ハマダーニー (1140年没)
- グレゴリウス8世 (対立教皇) (1140年没)
- ペトルス・アルフォンシ (1140年)
- ソビェスラフ1世 (1140年)
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