伝記
オズボーン・レイノルズは、1842年8月23日にアイルランド北部のベルファストで生まれたイギリスの物理学者で、流体力学の理解に重要な貢献をした。固体と流体のあいだの熱伝導に関する研究では、ボイラーや復水器の設計に改善をもたらした。生まれてまもなく、両親とともにイングランド東部エセックスのデダムという村へ移り住んだ。父は学校長と牧師を兼ね、数学にも造詣の深い有能な人物で、農機具の改良について多くの特許を取った。少年のオズボーンは、父の助手のような役を務めながら、父を信頼していた。若いころから力学の研究に適性と関心を示し、大学に入る前の十代後半には、造船工場として知られたエドワード・ヘイズの工房で見習いとして働いた。ここで製造業の実際的な経験を積み、早くから、流体力学を理解するうえでの実用的な意義を認識したという。
その後、ケンブリッジ大学のクィーンズ・カレッジに入り、数学の成績は7番目で、1867年に卒業した。その年、ロンドン郊外のクロイドンの土木会社で、下水道関係の土木技師として、再び見習いの職を得ている。のちにケンブリッジで数学を研究することを選んだ理由を、1868年の教授職への応募で、次のように記した。もっとも古い記憶から、科学を基礎とする力学と物理学の法則に対する抑えきれない衝動があり、さまざまな機械的な現象への興味から、数学の理解が不可欠だと考えるに至った、と。1868年、マンチェスターのオーウェン大学(現在のマンチェスター大学)の工学教授に指名され、イギリスの大学史上初の工学教授のひとりになった。この教授職は、マンチェスター地区の製造業のグループによって新たに用意され、財政的に賄われたもので、25歳の彼がその職を得た。以後、職歴の残りをこの大学で過ごした。1877年に王立協会のフェローに選ばれ、1888年にロイヤル・メダル、1897年にベーカリアン・メダルを授与され、1905年に退職した。
配管内の流体の流れが、層流から乱流へと遷移する条件を研究したことで有名である。これらの実験が、動的相似性を表す、慣性と粘性の比である無次元のレイノルズ数の発見につながった。さらに、乱流での速度などの物理量を、平均量と変動量の和として表す手法を提案した。これは、レイノルズ平均ナビエ・ストークス方程式として知られる。流体力学の論文発表は1870年代の初めに始まり、1890年代の中ごろに提案した最後の理論モデルは、今日も標準的な数学の枠組みとして使われている。成果は船舶の設計にも大きく貢献した。船の建造前に模型で水の抵抗を測り、これを摩擦抵抗と造波抵抗に分け、前者は彼の理論で、後者はフルードの理論で実物の大きさへ引き伸ばすことで、実物の抵抗を正しく予測できるようになった。
約70の科学・工学の論文を寄稿し、研究の総仕上げとして、3巻の論文集に再発表された。扱った範囲は、流体力学のほか、気体の分子運動論、蒸気の凝縮、スクリュープロペラやタービンの船舶推進、油圧ブレーキ、流体潤滑、ジュール熱の仕事当量の測定の改善など多岐にわたる。1880年代には、粒状材料の性質、とくにダイラタンシーの研究にも取り組んだ。1903年には『宇宙のサブ力学』という250ページの本を出し、粒状体の力学を一般化して、あらゆる物理現象を説明しようと試みたが、彼の考えは理解しがたく、ほとんどは他の物理学の発展に取って代わられた。1912年2月21日に没した。
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