HISTORICAL PERSON · 1912年没

クララ・バートン

アメリカ赤十字の設立者で、看護師のパイオニア。教師を経て1855年から特許庁の書記官を務め、南北戦争では負傷した兵士のために衣服、食糧、物資を個人的に提供し、病院勤務の看護師も務めた。

生涯
1912年没
死亡地
アメリカ合衆国(メリーランド州 / Glen Echo)
出生地
アメリカ合衆国(オックスフォード)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(メリーランド州)

伝記

クララ・バートンは、1821年12月25日に生まれ、1912年4月12日に没した、アメリカ赤十字の設立者である。看護師の先駆者であり、特許事務官、教師、南北戦争期の病院勤務看護師も務めた。

マサチューセッツ州ノース・オックスフォードで、5人兄弟の末っ子として生まれた。父は地元の民兵の一員で議員も務め、愛国心と幅広い人道的関心を娘に与えた。10歳のとき、納屋の屋根から落ちて重傷を負った兄弟のデイビッドを看護して、完治させた。医者があきらめてからも世話を続け、当時の標準的な治療である、ヒルに血を吸わせる瀉血も習得した。極度に臆病で内気な性格だったため、両親はそれを治そうと学校に送ったが仇となり、さらに臆病で抑うつ的になって、食べるのもままならなくなり、家に戻った。内気を克服するため、両親は学校の先生になるよう説得し、1839年に17歳で最初の教師免許を取得した。

12年間、カナダと西ジョージアの学校で教育者を務めた。1852年には、ニュージャージー州で初めてのフリースクールをボーデンタウンで開いた。成功して、1年後には600人以上の生徒を教えるために別の女性を雇い、学校は新しい校舎のため約4,000ドルを調達できた。しかし完成後、彼女は教育委員会が選んだ男性に校長を譲ることとなった。委員会は、大きな組織の長に女性は相応しくないという姿勢をとっていた。神経衰弱で辞めるまで、過酷な環境で働いた。1855年、ワシントンD.C.に移り、米国特許庁の書記官として働き始めた。男性と同じ給与をもらえ、連邦政府の重要な書記として女性を雇い入れた初めての仕事だったが、男性職員から多くの虐待と中傷を受け、1856年に「黒人共和主義者」として解雇された。リンカーンの選出後の1861年秋に、一時的に写字生として特許庁に戻った。

1861年4月19日の暴動は南北戦争初の流血事件となり、マサチューセッツ連隊内の負傷者がワシントンへ移送された。国に貢献したいと考えていた彼女は、負傷した40人が到着する駅に行き、個人的な援助を行った。看護学校には通っておらず、独学で看護を行った。軍から身分証明証を貰い、兵士のための医療品を集め始め、1862年初めに自宅の居間を倉庫にして、戦場へ直接物資を届けた。1862年8月、最前線で働く許可を得て、シーダー山の戦い、第二次ブルランの戦い、フレデリックスバーグの戦いなど、いくつもの戦場で兵士に付き添い、野戦病院の清掃や包帯、食糧の提供などをこなした。南軍も北軍も関係なく助け、アンティータムの戦いでは、包帯の代わりにトウモロコシの皮を使った。1864年に、ジェームズ軍の前線の病院の「女性責任者」に任命され、「戦場の天使」として有名になった。

戦後は、リンカーン大統領に連絡を取り、行方不明兵士の調査を行う許可を取得し、ワシントンに調査事務所を開設した。41,855件の質問に回答し、22,000人以上の行方不明者を探し出した。アンダーソンビル捕虜収容所で亡くなった13,000人を特定し、埋葬できるようにした。1869年にスイスのジュネーブで赤十字を紹介され、普仏戦争では従軍看護師として参加した。帰国後の1873年に、アメリカに赤十字を設立する活動を開始し、アーサー大統領に、戦争だけでなく自然災害でも救助する組織の必要を訴えて、説得に成功した。1881年5月21日に最初の公式会合が開かれ、会長に就任した。1904年、公私混同の批判により、83歳で会長辞任を強いられた。1912年4月12日、自宅で肺炎のため亡くなった。

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