伝記
イブン・バーッジャは、12世紀前半のイスラム世界の西方、アンダルス地方で活躍した哲学者であり政治家である。生年ははっきりせず、1095年ごろとも1085年ごろともいわれ、没年は1138年とされる。サラゴサの生まれで、ラテン語化された名アヴェンパーケでも知られる。哲学のほか、天文学、物理学、音楽、医学、植物学、詩にも通じた多才な人物で、西方イスラーム哲学の歴史に現れた最初の哲学者と位置づけられる。
サラゴサの支配者は若い頃に何度も入れ替わったが、1114年にムラービト朝の総督としてイブン・ティフィルウィトが任じられた。イブン・バーッジャはこの総督と親しく、酒宴や音楽をともにし、頌歌やムワッシャハという詩形の作品で称えて、宰相に取り立てられた。外交使節として廃位されたフード家の王のもとへ赴いた際には、理由の分からないまま数か月投獄されたという。総督が1116年にキリスト教勢力との戦いで戦死すると、その死を悼む哀歌を作った。音楽の才にも恵まれ、初期には旋律についての小論を著し、ファーラービーの音楽論への注解も記したとされる。
1118年にサラゴサがアラゴン王アルフォンソ1世の手に落ちると、保護を求めてムラービト朝の王族のもとに身を寄せ、セビリアへ来て同朝に仕え、宰相になったともされる。約20年にわたり宰相として仕えたとされるが、宮廷では周囲との折り合いがよくなかった。詩集の編者によって最下位に置かれたこともあり、ムラービト朝の下で二度投獄されたともいう。同時代の哲学者は神秘主義へ傾き隠遁する者が多かったが、彼は政治の実務に徹底して力を注いだ。そのため政敵も多く、合理主義的な思想から無神論者との烙印を押されることもあった。
思想はアリストテレスの解釈に始まり、知性を重んじる合理的な立場をとった。人間の究極の目的は、能動知性が人間の知性と結合することにあると説いた。未完の倫理・政治論文『孤独者の経綸』はファーラービーの『有徳都市の見解』の続編として書かれ、予定外のエジプト行きの際にイブン・イマームに宛てた『別れの手紙』や『知性と人間の結合』も著した。自然学では、運動を力と抵抗の関係でとらえ、アリストテレスの運動の式に異を唱えた。その投射体運動の議論は、イブン・ルシュドの『自然学大注解』に引用され、のちのインペトゥス理論の先駆けとして論じられる。その考えは弟子とされるイブン・トゥファイルらを通じて伝わり、イブン・ルシュドやアルベルトゥス・マグヌスにも影響を与えたとされる。
1138年に没し、死はフェズでのこととされる。毒殺されたとの説があり、敵対した医師イブン・ズフルの召使いが疑われたが、有罪にはならなかった。若くして亡くなり多忙でもあったため、著作の多くは未完のまま残った。植物学の書『植物の書』は、植物の性を論じた書物として知られる。詩集は失われたと思われていたが、1951年に再発見された。天文学の説はマイモニデスが、物理学の説はイブン・ルシュドが伝えたとされ、のちのイスラム世界の天文学者や物理学者、ルネサンス期ヨーロッパにまで影響が及んだとする見方もある。多くの師のうちには、セビリアの医師でトルヒーリョ出身のアブー・ジャアファル・イブン・ハールーンがいた。日本語では『孤独者の経綸』と『知性と人間の結合』が、中世思想原典集成の第11巻に訳されている。
同じ年に亡くなった人物
- キヤー・ブズルグ・ウミード (1138年没)
- イブン・ハファージャ (1138年没)
- ボレスワフ3世クシヴォウスティ (1138年没)
- アルワー・アッ=スライヒー (1138年)
- ラーシド (1138年没)
同じ地域に関係する人物
- ムハンマド・イブン・イドリース (836年没)
- アブー・イナーン・ファーリス (1358年没)
- イブン・アル=ハティーブ (1375年没)
- フェルナンド聖王子 (1443年没)
- ユースフ・ベン・ハサン (1927年没)