伝記
アルフォンソ1世は、1104年から1134年までアラゴン王とナバラ王を兼ねた君主である。レコンキスタを積極的に進め、29の戦いに勝ったことから、武人王(戦士王)と呼ばれた。1073年か1074年に、アラゴン王サンチョ・ラミレスの子として生まれた。兄はペドロ1世(異母兄)、弟は同母弟のラミロ2世である。幼いころはシレサの聖ペドロ修道院で育ち、読み書きと武芸を学んだという。兄ペドロ1世のもとで、国を治める務めを学ぶための領地も与えられた。父がウエスカの攻囲中に没したのちは兄の側につき、1096年のアルコラスの戦いのあとのウエスカ攻略に加わった。翌年にはシッドを助ける遠征にも参加している。
1104年に兄ペドロ1世が男子を残さずに没すると、アルフォンソ1世がアラゴンとナバラの王位を継いだ。即位してすぐに攻勢に出て、1106年にエヘア・デ・ロス・カバジェロスなどを奪い、1107年にはレリダ近郊を攻撃し、サラゴサ南方のベルチテやモレーリャなどを攻略して、サラゴサとの連絡を断った。1109年には、カスティーリャ王アルフォンソ6世の娘で女王となった又従妹のウラカと結婚し、「全スペインの皇帝」を名のった。しかしカスティーリャの貴族の反対が多く、夫妻の仲も悪かったため内乱のきっかけとなり、1111年に離婚したとも、1114年に別れたともいわれる。子はなかった。1113年にはカスティーリャに戦争を仕掛け、1114年にアラゴンへ戻ってからも敵対を続けた。
1117年2月、サラゴサの包囲を始めた。翌1118年、教皇ゲラシウス2世がトゥールーズで呼びかけたフランス貴族の十字軍が南下し、その増援を得て、同年12月にサラゴサを降伏させた。1119年にはカラオラ、タラソナ、トゥデラ、エピラ、ボルハなどカスティーリャ東部の町を占拠し、アラゴンの威信を高めた。1120年にはアキテーヌ公ギヨーム9世らの十字軍を加えてカラタユーを包囲し、救援に現れたムラービト朝のアミール、アリー・イブン・ユースフの援軍を破って、6月に町を征服した。ハロン川流域の他の都市も落とし、領土は南へ広がった。占領した都市のイスラム教徒には生活と財産を保障し、退去も残留も自由とするなど、キリスト教徒と差別しない寛大な処置をとった。1122年にはプエンテ・ラ・レイナにフエロを発布して自治都市の形成を促し、テンプル騎士団と聖ヨハネ騎士団を厚遇した。1125年9月には、ムラービト朝の力が揺らぐなか、内通して蜂起を約束したモサラベにこたえてアンダルシアへ長距離の遠征を行い、1126年1月にグラナダへ達した。モサラベの蜂起は起こらなかったが、約1万人のモサラベを連れ帰ってエブロ川流域に住まわせた。この遠征でアリーの威信は落ち、アルフォンソ1世の名声は高まった。
1127年からは、ウラカと先夫の子であるカスティーリャ王アルフォンソ7世の反撃にあい、1131年までに国境を押し戻されて西の領地は減った。一方、1133年にはメキネンサを攻略して東へ進出した。1134年6月、フラガを包囲しているときに、バレンシア総督イブン・ガーニャの待ち伏せで重傷を負い、9月8日に没した。
アルフォンソ1世は、死後に王国をテンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団などの騎士団に遺贈するという遺言を作っていた。しかしアラゴンの貴族はこれに反対し、ロダ・バルバストロの司教であった弟ラミロを還俗させて、ラミロ2世として王位につけた。ナバラでは、貴族がガルシア5世の曾孫ガルシア6世を王に立てたため、アラゴンとナバラの同君連合は解消された。
同じ年に亡くなった人物
- クサンテンのノルベルト (1134年)
- ユーグ2世 (1134年)
- ロベール2世 (ノルマンディー公) (1134年没)
- ステファン・ハーディング (1134年没)
- トゥグリル2世 (1134年没)
同じ地域に関係する人物
- ラミロ2世 (アラゴン王) (1157年没)
- ビオランテ・デ・ウングリア (1251年没)
- Isabella of Aragon (1424年没)
- サンチャ・デ・カスティーリャ (アラゴン王妃) (1208年没)
- フェリックス・デ・アサーラ (1821年没)