伝記
グスタフ・マーラーは、1860年7月7日、オーストリア帝国のボヘミア王国のイーグラウ(現チェコのイフラヴァ)近郊のカリシュト村に生まれた作曲家、指揮者で、主にウィーンで活躍し、交響曲と歌曲の大家として知られる。父ベルンハルトと母マリー・ヘルマンの第2子だった。父は、はじめ荷馬車での行商をしており、御者台の上でもあらゆる本を読んだため「御者台の学者」と呼ばれた。独力で酒類の製造業を始め、ユダヤ人に転居の自由が許されると、一家はイーグラウに移った。事業に成功した父は、ドイツ人とも広く交流し、子供たちにも同様の教育を施した。幼いグスタフはドイツ語を話し、地元のキリスト教の教会で少年合唱団員として歌った。息子の音楽的才能をいち早く信じ、より良い音楽教育を受けられるよう尽力したのも父である。父は強い出世欲を持ち、子供たちにも夢を託した。
母は、石鹸製造業者の娘で、心臓が悪く生まれつき片足が不自由だった。後に妻のアルマ・マーラーは、「あきらめの心境で愛のない結婚をし、結婚生活は初日から不幸だった」と記している。グスタフは生涯、この母に、固定観念と言えるほど強い愛情を持ち続けた。夫妻には男子11人、女子3人の計14人の子が生まれたが、半数の7人は幼少時に病気で亡くなり、長男も早世したため、グスタフはいわば長男として育てられた。心臓水腫に長く苦しんだ弟エルンストを、少年期のグスタフは愛し、死ぬまで数か月間ベッドから離れずに世話をしたという。父の母である祖母も、行商を生業とする剛毅な人で、のちに行商を規制する法律に触れる事件を起こして重刑を言い渡されると、ウィーンへ赴き皇帝に直訴し、80歳の高齢と体力に感動した皇帝に特赦された。マーラーの一徹な性格は、この祖母譲りだとアルマは語っている。
4歳の頃にはアコーディオンを巧みに演奏したとされる。5歳の頃、母方の祖父母の家を訪れた際に姿を消して長時間捜索され、見つかったときは屋根裏でピアノをいじっていた。父はこのとき、息子が音楽家に向いていると確信したという。1869年にイーグラウのギムナジウムに入学し、10歳の1870年10月13日には市立劇場の音楽会でピアニストとして出演した。1875年にウィーン楽友協会音楽院(現ウィーン国立音楽大学)に入り、同級生にはフーゴ・ヴォルフがいた。1876年にシューベルトのピアノ・ソナタの演奏でピアノ部門の一等賞を、ピアノ曲で作曲部門の一等賞を受賞した。1877年にはウィーン大学の哲学部に入学し、ドイツの古典文学やギリシャ美術史を学んだ。ブルックナーの交響曲第3番の初演に立ち会い、その4手連弾用の編曲も手がけて、ブルックナーと深い交友を結んだ。1878年7月11日に音楽院を卒業した。
卒業後は、ピアノの家庭教師や伴奏で糊口をしのいだ。1880年5月、出版社社長レティヒの紹介で、リンツ近郊の温泉保養地バート・ハルの劇場の楽長となったが、劇場はすぐに閉鎖された。その年の11月にカンタータ『嘆きの歌』を完成させ、翌年ベートーヴェン賞に応募したが落選した。ライバッハやオルミュッツの劇場でも楽長を務め、1883年9月にカッセル王立劇場の次席楽長となり、待遇の問題で辞任した。1884年にはライプツィヒ市立劇場と6年間の契約を結び、バイロイト音楽祭で念願の『パルジファル』を観た。1887年にニキシュが退くとライプツィヒで首席指揮者に繰り上がり、ウェーバーの未完のオペラの補筆完成も行った。1888年に交響曲第1番の第1稿を完成させた。1911年5月18日に没した。
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