HISTORICAL PERSON · 1910年没

ナダール

フランスの写真家。肖像写真家として名を馳せたほか、風刺画家、ジャーナリスト、気球乗りとしても活躍した。風刺肖像画『パンテオン・ナダール』で名声を高め、1858年に気球から世界初の空中撮影を行った。

生涯
1910年没
死亡地
フランス共和国(パリ / avenue Franklin-D.-Roosevelt)
出生地
フランス共和国(サントノーレ通り)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ナダール(本名ガスパール=フェリックス・トゥールナション)は、1820年4月6日にパリで生まれ、1910年3月21日に没したフランスの写真家である。数多くの文化人や重要人物を撮影した肖像写真家として名を馳せたほか、風刺画家、ジャーナリスト、小説家、気球乗り・飛行技術の研究家としても活躍した。巨体で赤毛の、放浪癖のある若者だった。両親はリヨンの出身で、父ヴィクトルはパリに出て書店主・出版業者として成功していた。若いころは、父に反抗してしばしばパリの貧民街などに移り住み、サン・ラザール駅近くのコンドルセ中等学校で学んだ。1837年に父が亡くなると、リヨンで医学を学んだが、財政的な支援はなく、母や弟の生活の面倒も見なければならなかったため、まず糊口の道を探した。リヨンの新聞に様々な記事を寄稿したのち、パリに戻って、詩人やボヘミアン的な芸術家を主人公にした小説などを書いた。友人たちは、すべての単語の語尾に「ダール」をつける遊びを彼がよくしたことから、「トゥールナダール」とあだ名し、これが縮まって「ナダール」という通り名になった。

生活は極めて厳しく、注文に応じて小説や戯画を書いて暮らしていたが、友人の財政支援で雑誌『黄金の書』を発行し、編集長となった。バルザックや大デュマ、ドーミエらと協力して成功したが、わずか9号で廃刊となった。その後は戯画家として活動し、1848年初頭、2月革命の前夜に風刺新聞『ル・シャリヴァリ』の風刺画家となった。同年3月、兄とともに偽名でポーランドに渡り、現地の革命を助けようとして逮捕され、鉱山での労働の刑を受けたが、苦難の末に帰国した。1849年には風刺新聞を発行し、1851年から1854年にかけて、当時の重要人物300人以上を描いた風刺肖像画シリーズ『パンテオン・ナダール』で名声を高めた。

1854年、パリのサン・ラザール街の建物に移り、日光のよく入る部屋をアトリエにして、新技術である写真による肖像の探求に打ち込み、写真スタジオを開いた。当時は湿式コロジオン法が普及してパリ中に写真館が現れ、肖像写真を撮ってもらうのがブームとなっており、写真館は軌道に乗り始めた。同年、プロテスタントの裕福な家庭の若い女性エルネスティーヌと結婚した。1858年10月23日、パリ西部近郊のクラマールで、気球研究家のゴダール兄弟が操縦する気球に乗り、世界初の空中撮影を行った。真上から見たパリの写真は、当時の人々を非常に驚かせた。1860年にはスタジオをカプシーヌ大通りに移し、ボードレールやサラ・ベルナール、リスト、ジョルジュ・サンドなど、第二帝政期の主だった文化人や政治家、君主らを撮影した。その肖像写真は、わざとらしさが少なく、対象の自然さや精神性を引き出している。

1863年ごろから、高さ40メートル、13人乗りの巨大気球「巨人号」を建造した。この計画はジュール・ヴェルヌの小説にも着想を与えたが、公開飛行や2度目の飛行実験は失敗に終わり、資金が尽きて計画を中止した。以後、将来の飛行を担うのは空気より重い機械だと確信し、ヴェルヌを書記とする協会を結成した。1870年から1871年の普仏戦争では、プロイセン軍にパリが包囲されると、軍事用気球を建造して気球部隊を組織し、敵情の偵察や、手紙の輸送などに従事した。66機の気球が建造されて、各地への11トン・250万通の郵便の輸送に従事し、これが世界最初の航空郵便とされる。1874年4月には、自分のスタジオを、モネやドガ、ルノワールらによる展覧会の会場として貸し、これが後に第1回印象派展と呼ばれる。

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