伝記
アレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェルは、1832年12月15日に生まれ、1923年12月27日に没したフランスの技師、構造家、建設業者である。エッフェル塔を設計した人物として一般に知られ、コンテストへのプラン提出責任者であり、その建設を受託したエッフェル社の代表であった。気象学と航空力学の研究の発展にも寄与した。
一家の長男として、フランスのディジョンに生まれた。家系はアルザスから移住したドイツ系で、10歳のとき、教会と風車がある箱庭を一人で造り、その見事さに人々は驚いたと伝わる。ディジョンの王立中等学校を優秀な成績で修了後、1850年にパリに出てエコール・ポリテクニークを目指したが、受験に失敗し、1852年に第2希望の中央工芸学校化学科に入学して、技師免状を取得した。専攻が化学だったのは、化学工業で成功していた伯父の影響で、伯父は甥に事業を譲ることを考えていたという。しかし、父と伯父が疎遠になったため、卒業後は一時、義理の弟が経営する鉄鋼所に勤めたのち、鉄道関係の仕事をすることになった。当時フランス全土に鉄道網建設の計画が進んでおり、鉄道に興味を覚えたとされる。
1856年に、鉄道資材建造業のシャルル・ネブザーと出会い、土木技術を修得した。1858年から1860年には、7スパンを含む延長500メートルの大鉄橋の工事のすべてを担当し、圧送空気を用いた杭打機を使って、貴重な経験を得た。この功績により、会社から個人名での商談を許されるようになった。1862年にマリー・ゴドレと結婚し、5人の子をもうけた。1866年、ヨーロッパを襲った経済危機で会社が閉塞に陥ったため、資産家のセイリグをパートナーとして独立し、エッフェル社を創業した。独立後の仕事は、万博の展示場、駅舎、ガス工場、鉄道高架橋、可動橋、天文台の丸天井など、多種の鉄骨造にわたり、ヨーロッパ各地から中国や東南アジアにまで及んだ。1875年には、ハンガリーのペスト市の終着駅と、ポルトガルのドウロ川にかかるマリア・ピア橋の工事を受注した。この橋は全長353メートル、中央のアーチのスパンは160メートルで、当時、つり橋を除けば世界一の長スパンの橋であった。鉄の特性をフルに活用し、鉄骨の構造を大胆に剥き出しにした巨大建築物を施工した。
1887年から1889年にかけて、革命百周年のパリ万国博覧会のモニュメントとして、鉄骨による巨大な塔を、シャン・ド・マルス公園北端のセーヌ河畔に建設した。これが有名なエッフェル塔である。完成当時は賛否両論だったが、今ではパリを代表するシンボルとなっている。社内の研究部長らが1884年6月に塔の原案を作成し、エッフェルを含む3人で、同年9月に鉄塔の新案特許を登録した。工事に当たって1人の犠牲者も出さなかった。しかし、1884年にはタルド河の高架橋を建設途中に倒壊させる大事故を起こしている。のちにパナマ事件に巻き込まれて起訴され、判決は懲役2年と罰金であったが、控訴して最高裁で無罪となった。この事件は長く心の痛手となり、会社経営から身を引いた。
晩年はエッフェル塔にサロンを設けて、気象観測や無線の研究に励み、1903年、70歳をすぎて風の制御に関する研究に取りかかり、1909年に風洞を建設した。これは航空機の進歩に大きく貢献した。1920年に引退して、孫たちに囲まれ、おだやかな晩年を過ごした。1923年12月27日、パリの自ら設計した自宅で死去した。91歳であった。
同じ年に亡くなった人物
- コンスタンス・ブルワー=リットン (1923年没)
- Alexander Lodygin (1923年没)
- Jules Violle (1923年没)
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- トンマーゾ・サルバドーリ (1923年没)
同じ地域に関係する人物
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- ポール・シニャック (1935年没)
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