伝記
ボードゥアン7世は、1093年、フランドル伯ロベール2世とクレマンス・ド・ブルゴーニュの息子として生まれた。母方の一族には、後に教皇カリストゥス2世となる人物と、レオン女王ウラカの夫ライムンド・デ・ボルゴーニャがいた。ライムンドの息子アルフォンソ7世は従兄弟に当たる。また、母の姉妹ジゼルの子であるサヴォイア伯アメデーオ3世とモンフェラート侯グリエルモ5世も従兄弟であり、母方を通じて各地の諸侯と親族関係を持っていた。ジゼルは最初にサヴォイアのウンベルト2世と、次にモンフェラートのラニエーリと結婚していた。
1105年、12歳のボードゥアンは、ブルターニュ公アラン4世の娘と結婚した。妻はアニェスともアヴォワーズとも呼ばれ、このとき9歳であった。2人の結婚生活は実質を伴わなかった可能性がある。教皇パスカリス2世は、近親関係を理由としてこの婚姻を無効とした。そこには両家を取り巻く同盟関係の変化もあり、ブルターニュがイングランド王の側についたのに対し、フランドルはフランス王と結んでいた。2人は1110年に別れ、子供はなく、その後ボードゥアンは再婚しなかった。
1111年10月5日、父ロベール2世が死去すると、18歳でフランドル伯を継承した。若い新伯は、同じ宮廷で育った従兄弟シャルルに助言を求めた。シャルルはボードゥアンより一回りほど年長で、後に善良伯の名で知られる人物である。1118年には、ボードゥアンがシャルルとマルグリット・ド・クレルモンの結婚を仲立ちした。マルグリットはアミアン伯領の女子相続人であった。
同年9月、ボードゥアンはフランス王ルイ6世の側に立ち、イングランド王ヘンリー1世と戦った。ビュール=アン=ブレイでの戦闘中に負傷し、その傷がもとで1119年7月17日に死去した。ボードゥアンは死を前にシャルルを後継者として指名し、その意向は遺言にも示された。シャルルは伯の死後、シャルル1世としてフランドル伯位を継いだ。ボードゥアンは従来のフランドル家から出た最後のフランドル伯となった。
同じ年に亡くなった人物
- ゲラシウス2世 (ローマ教皇) (1119年没)
- ルッジェーロ・ディ・サレルノ (1119年)
- アラン4世 (ブルターニュ公) (1119年没)
- ハインリヒ1世 (リンブルフ伯) (1119年没)
同じ地域に関係する人物
- ウィリアム・H・ホジスン (1918年没)
- ツェツィーリア・フォン・グリーヒェンラント (1937年没)
- アンブロシウス・ベンソン (1550年没)
- マルセル・キント (2002年没)
- ピーテル・プルビュス (1584年没)