伝記
ハインリヒ1世は、1059年ごろに生まれ、リンブルフとアルロンを治めた伯である。その出自には異説があり、父をヴァルラム2世、母を下ロートリンゲン公フリードリヒの娘ユーディトとする系譜が伝わる。一方、リンブルフ伯ウドを父とし、アルロン伯家の女子相続人との結婚によって両伯領を合わせたともいわれる。ヴァルラムとウドを同一人とみるかどうかによって、親子関係の理解も異なる。ハインリヒは1082年から両伯領を治めたとされる。アーデルハイト・フォン・ポッテンシュタインを妻としたが、その結婚が最初のものだったか、再婚だったかも確定していない。アーデルハイトはポッテンシュタインのボトとユーディトの娘である。子にはヴァルラムのほか、アグネス、アーデルハイト、マティルデの3人の娘がいたとされる。マティルデはナミュール家出身のラ・ロッシュ伯アンリ1世と結婚した。
伯としての活動では、教会の財産をめぐってトリーア大司教エギルベルトと争った。かつてアルロンの女伯アデルが教会に寄進した財産を取り戻したためである。返還を求められても応じず、破門されたのち、大司教の軍に大敗した。また、サン・トロン修道院の保護職を継いで、その内部の問題に介入した。同院の修道院長ヘルマンはメッツ司教ポッポによって任命され、ゴドフロワ・ド・ブイヨンとハインリヒの支持を得ていたが、皇帝ハインリヒ4世と対立した。皇帝が修道院をルーン伯アルヌールの権限の下に置くと、アルヌールは現地に赴き、両者を撤退させた。
その後、ゴドフロワをはじめとする有力貴族が第1回十字軍へ出発すると、ハインリヒの地域における力は増した。しかし、その権力を修道院に対して濫用したため、皇帝の介入を招いた。1101年7月、皇帝軍はリンブルフを攻略し、ハインリヒは服属を余儀なくされた。服従後は皇帝の恩顧を回復し、十字軍に向かったゴドフロワの不在によって空いていた下ロートリンゲン公位を与えられた。この公位をめぐっては、ルーヴェン伯ゴドフロワ1世と競合することになった。
皇帝とその息子ハインリヒ5世の争いに際しては、初め息子の側に加わったが、のちに父帝を支持した。1106年に父帝が死去すると、ハインリヒ5世の党派から攻撃を受けた。領地は荒らされ、リンブルフは再び占領され、ハインリヒ自身もヒルデスハイムに幽閉された。公位はゴドフロワ1世へ移された。ハインリヒは脱出してリンブルフと下ロートリンゲンの奪回を試みたものの成功せず、新帝とゴドフロワとの和平に応じた。ただし公の称号を放棄せず、自らをリンブルフ公と称し続けた。
その後も皇帝に対する反乱に加わり、ザクセン公ロタールと行動をともにした。1114年にはアンデルナハで、1115年2月11日にはヴェルフェスホルツで戦い、勝利した側に立った。1119年ごろに死去し、息子ヴァルラムが伯領を継いだ。下ロートリンゲン公位の争いは次代にも続き、1128年にはロタール3世がヴァルラムに公位を与えた。しかし1139年、コンラート3世はこれをルーヴェン家へ戻した。翌1140年にはヴァルラムの息子ハインリヒ2世がリンブルフ公となり、両家の公位をめぐる状況は落ち着くことになった。
同じ年に亡くなった人物
- ゲラシウス2世 (ローマ教皇) (1119年没)
- ボードゥアン7世 (フランドル伯) (1119年没)
- アラン4世 (ブルターニュ公) (1119年没)
- ルッジェーロ・ディ・サレルノ (1119年)
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