伝記
西太后は、道光15年10月10日(1835年11月29日)に生まれ、光緒34年10月22日(1908年11月15日)に没した、清の咸豊帝の側妃で、同治帝の母である。清末期の権力者として知られる。満州の旗人、鑲藍旗人のイェヘナラ(葉赫那拉)氏の出身で、幼名は蘭児という。「西太后」という名は、もともと咸豊帝の第2夫人であった「東太后」(慈安皇太后)と対になる名称で、紫禁城内における皇太后の住む場所による呼び名である。咸豊帝の皇后だった東太后が男子を産めなかったのに対し、西太后は男子を産んだが、生涯において皇后になることはできなかった。出生地は不明で、安徽省の蕪湖、内モンゴルのフフホト、山西省の長治などの諸説があるが、近年の学界では北京出生説が有力とされる。父の恵徴は中堅官僚で、1853年に安徽省の赴任先で太平天国の乱に巻き込まれ、その心労により病死した。
1851年、数え17歳のとき、3年ごとに紫禁城で行われる后妃選定の面接試験「選秀女」に合格し、翌年、18歳で咸豊帝の後宮に入って「蘭貴人」となった。のちに徽号を「懿」に変え、貴人から懿嬪に進み、1856年に咸豊帝の長男(載淳)を産んだ功績で、懿貴妃に昇進した。載淳は、咸豊帝の唯一の長く生きた男子であった。アロー戦争により熱河に逃れた咸豊帝は、1861年に崩御した。政治の実権をめぐり、載淳の生母である懿貴妃と、咸豊帝の遺命で後見となった8人の顧命大臣は、激しく争った。懿貴妃は皇后と恭親王奕訢を味方に引き入れ、咸豊帝の棺を北京へ運ぶ途上でクーデターを起こし、載垣、端華、粛順らを処刑して権力を手にした(辛酉政変)。
北京へ帰還した後、載淳は同治帝として即位した。当初は東太后と西太后が垂簾聴政を行い、恭親王が議政王大臣として補佐する三頭政治だったが、東太后は政治に関心がなく、実質的には西太后と恭親王の二頭政治であった。1874年に同治帝は大婚を機に親政を行おうとしたが、若くして崩御した。同治帝が子を残さなかったため、西太后は、自身の権力低下を恐れて、通例を破り、妹の子の載湉(さいてん)を光緒帝として即位させ、垂簾聴政を続けた。1881年に45歳の東太后が突然死去し、1884年には、清仏戦争の敗北の責任を恭親王に負わせて失脚させたため、西太后は清朝において絶対的な地位を確立した。1887年に光緒帝が成年しても、「3年間の訓政」という形で後見を行うことを条件とし、1888年には自分の姪を光緒帝の皇后に推挙した。
1895年の日清戦争の敗北の主要因には、西太后が行っていた頤和園の再建と拡張や、60歳の祝典の莫大な浪費のために、北洋艦隊や海軍の予算が不足したことがあると指摘されている。この敗北で洋務運動の挫折が明白になると、光緒帝は康有為、梁啓超らを登用し、1898年に体制の抜本改革を宣言した。しかし西太后は、側近の栄禄に首都近郊の軍を統括させ、クーデターを準備した。変法派の計画を、袁世凱が栄禄に密告すると、西太后は宮中に乗り込んで光緒帝を拘束し、中南海の瀛台に幽閉して、三度目の垂簾聴政を開始した(戊戌の政変)。康有為や梁啓超は日本へ亡命し、譚嗣同を含む6人が処刑された。西太后は光緒帝を廃そうと溥儁を大阿哥に擁立したが、諸外国の反対で実行できず、憤懣を蓄積させ、これが後の義和団支持へとつながった。1908年10月21日に光緒帝が崩御した翌日に、西太后も崩御した。
同じ年に亡くなった人物
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- ジョヴァンニ・ファットーリ (1908年没)
- ヴィルヘルム・ブッシュ (1908年没)
- フランソワ=オーギュスト・ジュヴァール (1908年没)
- Manuel Marroquin (1908年没)
同じ地域に関係する人物
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- 彭徳懐 (1974年没)
- 黄華 (2010年没)
- 林紓 (1924年没)
- 栄禄 (1903年没)