伝記
ジョアキン・マリア・マシャード・デ・アシスは、1839年6月21日にブラジル帝国の首都リオ・デ・ジャネイロで生まれ、1908年9月29日に同地で没したブラジルの小説家・詩人・短編作家である。ブラジル文学で最も重要な作家として認められているが、生前は有名にならなかったと伝えられる。リオのリヴラメント丘の、貧しい家庭に生まれた。父フランシスコ・ジョゼ・デ・アシスは、ムラートの壁塗り兼画家で、母マリア・レオポルディーナはアソーレス諸島のサン・ミゲル島から来たポルトガル人だった。二人とも読み書きができたが、これは当時の身分としては珍しいことだった。両親は、故人の上院議員の妻である大地主の婦人の庇護を受けて、その敷地に住まわせてもらっていた。
母語はブラジルのポルトガル語だったが、公立学校でわずかに学んだだけで、大学には通わなかった。それでも、教会で習ったラテン語に加えて、英語やフランス語を独学で身につけ、シェイクスピア、ディケンズ、ダンテ、ソフォクレス、セルバンテス、ショーペンハウアーなどから影響を受けた。フランス文学の影響が強かった当時のブラジルの作家としては例外的に、アシスは英文学の影響を強く受けた。見習い印刷工から出発し、新聞記者、編集者などを経て、25歳の1864年に処女詩集『さなぎ』を出版した。新聞に詩や時評を発表して、早くから評判を得た。社交界や宮廷にも関心があり、知的な優位と首都の教養を身につけて、社会的に上昇しようと努めたと伝記作家は見ている。
1873年に農務省に入省して公務員となり、農業局を中心に、いくつもの役職を務めた。安定した経済的基盤を得て、執筆活動を続けることができた。生涯のうちに、帝政から共和政への政変や奴隷制の廃止など、ブラジル社会の大きな変化に立ち会い、政治・社会の出来事の優れた観察者でもあった。1896年に仲間の知識人とともにブラジル文学アカデミーを設立し、満場一致で初代会長に選ばれた。作品は、10編の長編小説、205の短編、10の戯曲、5冊の詩集、600を超える時評に及ぶ。
1881年の『ブラス・クーバス死後の回想』の発表によって、ブラジルにリアリズムを導入したと見られている。続く『キンカス・ボルバ』(1891年)、1899年の『ドン・カズムーロ』、『エザウとヤコブ』(1904年)、『アイレス氏の覚え書』(1908年)とともに、第二期の作品とされ、社会批判や皮肉、悲観的な傾向が見られる。第一期は『復活』『手と手袋』『エレナ』『イアイア・ガルシア』などで、ロマン主義の特徴を受け継いでいる。『ブラス・クーバス死後の回想』は、英語、フランス語、ドイツ語など十数か国語に訳された。アメリカの批評家スーザン・ソンタグやハロルド・ブルーム、作家のフィリップ・ロス、メキシコのカルロス・フエンテスらからも高く評価されている。ブラジルでは「文学史上、最大の文豪」と称され、1987年から発行された旧1000クルザード紙幣に肖像が使われた。エッサ・デ・ケイロースと並んで、19世紀のポルトガル語圏で最大の二人の作家とされ、オラーヴォ・ビラック、リマ・バヘット、ドゥルモン・ジ・アンドラージらにも影響を与えた。
同じ年に亡くなった人物
- チャールズ・ヤング (1908年没)
- スペンサー・キャヴェンディッシュ (第8代デヴォンシャー公爵) (1908年没)
- ルイス・フィリペ (ブラガンサ公) (1908年没)
- ジョン・ホープ (初代リンリスゴー侯爵) (1908年没)
- ローランス・フレーリク (1908年没)
同じ地域に関係する人物
- ルイ・バルボーザ (1923年没)
- ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガス (1954年没)
- アフォンソ・ペドロ皇子 (1847年没)
- ロバート・ブール・マルクス (1994年没)
- Washington Ortuno (1973年没)