伝記
ジェトゥリオ・ドルネレス・ヴァルガスは、1882年4月19日にブラジル南部リオグランデ・ド・スル州のアルゼンチンとの国境地帯にあるサン・ボルジャで生まれた政治家である。父は軍人で政治家でもあり、母方はアソーレス諸島に起源をもつガウーショの家系だった。士官学校に進むための資格を得ようとして生年を1883年と偽っていたことが、後年の生誕百年の際に明らかになったという。士官学校は卒業間際に退学し、ポルトアレグレの法科大学に転じて、1907年に卒業した。一時はポルトアレグレで検察官を務めたが、まもなく故郷に戻り、弁護士として働いた。
学生時代から支持活動をしていた政党を通じて政界に入り、1909年に州議会議員に選ばれ、1911年3月にダルシー・リマ・サラマーニョと結婚した。1923年には連邦議会議員となり、リオグランデ・ド・スル州選出の議員団の代表格となった。1926年から1927年にかけて大蔵大臣を務め、通貨と為替の改革を進めた。その後、1928年から1930年までリオグランデ・ド・スル州知事を務めた。州知事の在任中は、選挙の不正をなくすため秘密選挙と普通選挙を求め、州立銀行をつくり、長く対立していた州内の2政党を結びつけた。
1930年の大統領選挙で、前サンパウロ州知事ジュリオ・プレステスに敗れたが、当時の政治腐敗などへの不満を背景に、軍事クーデターを成功させて政権を握った。これによって、サンパウロとミナスジェライスの2州の有力者が支配してきた、カフェ・コン・レイテの時代は終わりを迎えた。統一国家の建設を目標にサンパウロの反乱を鎮圧し、1934年に議会から認められて正式に大統領となった。中央集権的でファシズムの色合いの強い新憲法を制定し、1935年にはルイス・カルロス・プレステスが煽動した軍隊内の共産党の反乱を完全に鎮圧した。
1937年には大統領選挙を目前にして再び軍事行動で選挙を中止させ、議会も解散して独裁を敷いた。この時期は新国家体制(エスタード・ノーヴォ)と呼ばれる。極右政党のブラジル統合主義運動も解散させ、1938年にその民兵団が公邸を襲撃した際には、衛兵とともに自ら銃を取って応戦して生き延びたという。労働者の保護と規制、資源の国有化、有色移民の制限を定めた憲法で、自主外交と統一国家の形成を目指した。やがて経済的に関係の深いアメリカ合衆国との協調に傾き、1942年に日本、ドイツ、イタリアに宣戦布告し、1944年にはイタリア戦線に派兵した。独裁は大戦中も続き、日系人の強制収容も行われたが、終戦後の1945年10月末に軍事クーデターで失脚した。それでも同じ年のうちに上院議員に選出されている。
1951年には、ブラジル史上初の民主的な選挙によって大統領に就任した。この時は都市のプロレタリアートや、かつての政敵であった共産党などの左翼からも支持を集め、政治姿勢はかつてより左傾化していた。1953年には「石油は私たちのもの」を掲げてペトロブラスを設立した。しかし民族主義的、ポプリスタ的な姿勢で都市労働者や中流階級を引きつけたものの、戦後の好況期の終わりとともに支持は衰えた。追及していたジャーナリストの暗殺計画に、側近で護衛隊長の黒人男性が関与した疑いが持ち上がり、退陣を求める声が強まるなか、1954年8月24日にリオデジャネイロの大統領官邸の自室でピストル自殺を遂げた。その肖像は、1962年から発行された旧10クルゼイロ紙幣に使われた。
同じ年に亡くなった人物
- ロバート・ジャクソン (法律家) (1954年没)
- オノフレ・マリモン (1954年没)
- シドニー=ガブリエル・コレット (1954年没)
- オイゲン・フォン・エスターライヒ (1954年没)
- アドルフ・ヨーゼフ・ランツ (1954年没)
同じ地域に関係する人物
- Benedicto Zacconi (1944年没)
- マリア1世 (ポルトガル女王) (1816年没)
- Francisco de Paula Rodrigues Alves (1919年没)
- ミゲル・グスタボ (1972年没)
- ドリヴァル・カイミ (2008年没)