伝記
チャンシッターは、1030年7月21日生まれとされるパガンの王で、チャンジッタとも呼ばれる。生年には異説があり、アノーヤター王の子とも、その家臣ともいわれる。王に献上されたインド出身の女性の子として生まれたという話もあるが、王統との血のつながりは確かでない。名は「探索から生き延びた者」に由来するとも、役人と兵士を意味する語を組み合わせたものともされる。若い頃にはアノーヤターの軍を率い、モン王国への遠征で功績を挙げた。ペグーにクメールの兵が侵入した際には、王に命じられて救援へ向かい、インド出身の兵を率いて侵入者を退けた。
この戦いの後、ペグーからアノーヤターの妃として王女キン・ウが送られた。チャンシッターは護送の途中で王女と恋に落ちたと伝えられる。関係を知ったアノーヤターはチャンシッターを追放し、追われた将軍は現在のサガインと考えられるチャウンビューで隠棲した。同地ではダムプラという女性と結ばれ、去る前に、子が生まれたならその子に王位を与えると約束したという。アノーヤターの後をソウルーが継ぐと宮廷に呼び戻されたが、再びキン・ウと関係を持ったため、今度は現在のヤンゴン付近のダラへ送られた。やがてペグーのモン族が反乱を起こすと、その討伐に加わった。ソウルーが反乱の中で死ぬと廷臣から王に推され、モン族を破った後、大僧正シン・アラハンのもとで戴冠した。即位は1084年4月21日とされる。
治世には灌漑を進め、農業と交易を基礎とするパガンの繁栄を支えた。モン族に対しては融和を図り、その言語と文化を宮廷で保護した。この時期にはビルマ、モン、ピューの慣習と仏教の実践が結びつき、ビルマ文字もほかの文字と並んで使われ始めた。上座仏教が広まる一方、大乗仏教やバラモン教の習俗もなお残っていた。ナガヨン寺院、アベーヤダナー寺院を建立し、アノーヤターの時代に始まったシュエズィーゴン・パゴダを完成させた。1090年または1091年にはアーナンダ寺院を建てた。インドから来た僧の話をもとに、オリッサのウダヤギリにある洞窟寺院を模したもので、内部にはインドから招いた画家による壁画を配した。パガンは仏教の学問の中心となり、宋やチョーラ朝からも王国として認められた。
王位の継承では、娘シュウェ・エインティとソウルーの子ソウユンとの婚姻が重要となった。娘にはベンガル地方のパティカヤの王子からも求婚があったが、廷臣は外国の王に国を委ねることになると反対した。娘夫婦にアラウンシードゥーが生まれると、チャンシッターはこの孫を後継者に選んだ。その後、チャウンビューでダムプラとの間に生まれた息子ヤーザクマーが現れた。王は息子を王子とし、北アラカンの支配者の称号を与え、ダムプラも妃に迎えた。
チャンシッターが没する直前、ヤーザクマーは父の事績を刻んだミャ・ゼーディー碑文を寺院に奉納した。同じ内容がビルマ語、パーリ語、モン語、ピュー語の四つで記され、現存最古のビルマ語碑文とされる。王は1112年とも1113年ともされる年に死去した。後世、オットー・ブラグデンはこの碑文を手掛かりに、未解読だったピュー文字の解読を進めた。
同じ年に亡くなった人物
- イド・ド・ブローニュ (1113年没)
- スヴャトポルク2世 (1113年没)
- リドワーン (1113年没)
- ゲルトルート・フォン・ザクセン (1030-1113) (1113年没)
- マウドゥード・ブン・トゥンテギン (1113年)
同じ地域に関係する人物
- パジードー (1846年没)
- ターヤーワディー・ミン (1846年没)
- ウトゥムポーン (1796年没)
- アノーヤター (1077年没)