伝記
クセルクセスは、ソフェネとコンマゲネの王である。アルメニアのクセルクセスとも呼ばれ、オロンテス朝に属した。名はギリシア語・ラテン語で表記された古代イランの「クシャヤルシャ」、すなわち「英雄たちを治める者」の意の名で、アケメネス朝の支配者にも多かった名前である。
オロンテス朝はイラン系とアルメニア系の出自をもつ王家で、父アルサメス1世はソフェネとコンマゲネ、そしておそらくアルメニアをも治めた。クセルクセスは父の跡を継いで紀元前228年にソフェネとコンマゲネの支配者となり、兄弟のオロンテス4世が大アルメニアを治めた。ただし、クセルクセスが確実にアルサメスの子であるという証拠はなく、実子であろうという推定にとどまるとされる。アルサメスが築いた都アルサモサタを支配していたことや、父がセレウコス2世に課されたのと同じ貢納と臣従を引き受けたことが、その根拠として挙げられている。
紀元前223年ごろ、セレウコス朝のアンティオコス3世に対して複数の太守が反乱を起こし、紀元前220年までにほとんどが鎮圧されたが、小アジアのアカイオスが敗れたのは紀元前213年であった。こうした経緯が、アンティオコスがのちにクセルクセスに強硬な態度をとった背景を説明すると考えられている。クセルクセスは貢納を拒み、紀元前212年までにアンティオコス3世が領内に侵入して、アルサモサタで包囲した。包囲のさなか、アンティオコスの側近にはクセルクセスを廃してアンティオコスの甥ミトリダテスを据えるよう勧める者もいたが、アンティオコスはこの進言を退けた。春にクセルクセスは都を出て、アンティオコスに服属したともいわれる。
アンティオコスはクセルクセスを呼び寄せ、父アルサメスの代から溜まっていた貢納の未納分の大部分を免除した。そして当面の支払いとして、300タラントン、馬1000頭、ラバ1000頭を受け取ることにした。クセルクセスは王位に復し、アンティオコスの妹アンティオキスを妻として与えられた。
クセルクセスの死は紀元前204年から202年ごろとされる。後代のアンティオキアのヨハネスは、兄の指示を受けたアンティオキスによる毒殺だと伝える。しかし研究者のグレンジャーは、毒殺は政治的に都合のよい死にしばしば持ち出される話であり、アンティオコスにもアンティオキスにも明白な動機がないとして、この説を信頼できないとし、自然死の可能性が高いと結論した。妻に暗殺されたとする説もある。夫妻に子は知られていない。アンティオキスは兄の宮廷に戻り、王国はアンティオコスに併合されたらしく、別の系統のオロンテス朝の人物ザリアドレスが任命されて治めた。クセルクセスは貨幣にも名を残しており、王の胸像と、ギリシア語で「王クセルクセスの」と記した銘文、女神アテナが刻まれている。
同じ年に亡くなった人物
- アッピウス・クラウディウス・プルケル (紀元前212年の執政官) (紀元前211年没)
- グナエウス・コルネリウス・スキピオ・カルウス (紀元前211年没)
- プブリウス・コルネリウス・スキピオ (紀元前211年没)
同じ地域に関係する人物
- Seyit Riza (1937年没)