HISTORICAL PERSON · 1907年没

ドミトリ・メンデレーエフ

ロシアの化学者。元素周期表を作成し、周期性に基づいて当時未発見だった元素の存在を予言した。予言はガリウムやスカンジウム、ゲルマニウムの発見で確かめられ、101番元素メンデレビウムは彼の名に由来する。

生涯
1907年没
死亡地
ロシア連邦(サンクトペテルブルク)
出生地
ロシア連邦(トボリスク)
出典
世界地図
ロシア連邦(サンクトペテルブルク)

伝記

ドミトリ・イヴァーノヴィチ・メンデレーエフは、1834年1月27日(グレゴリオ暦2月8日)、西シベリアのトボリスク近郊に生まれたロシアの化学者である。父イヴァン・パヴロヴィチは村の中学校の校長で、母マリア・ドミトリーヴナの多数の子供の末っ子だった。生まれた年に父が失明して職を失い、乏しい年金では暮らせず、母は祖父がトボリスク近郊に創業したガラス工場を再開して家計を支えた。学校では科学に優れ、シベリアに流された義兄や工場の化学者から科学への愛を教えられた。10代のとき父が亡くなり、まもなく工場も火事で失われた。母は子供たちをモスクワへ連れていったが、シベリア出身ゆえにモスクワの大学にもペテルブルクの大学にも入れず、1849年にペテルブルクへ移り住み、1850年に高等師範学校へ進学した。

卒業後の1855年に、クリミア半島のシンフェローポリのギムナジウムに博物学の教師として赴任したが、クリミア戦争のため講義はなく、すぐにオデッサのリシュリュー・リセに移った。翌1856年に修士論文の審査のためペテルブルクへ戻り、1859年から1861年にかけて、ハイデルベルクでキルヒホフやブンゼンのもとで研究し、気体の密度などを調べた。1861年にロシアへ戻ると、1862年4月にフェオズヴァ・ニキチナ・ラシェヴァと結婚した。1864年にペテルブルクの高等技術専門学校の化学教授となり、1865年にペテルブルク大学の技術化学の員外教授、12月には正教授に進んだ。講義は熱心で非常に人気が高く、聴講する学生で大教室が埋まるほどだったという。

1865年にジョン・ニューランズが「オクターブの法則」を発表したが、メンデレーエフも同様の考えを持っており、1869年3月6日にロシア化学会で「元素の性質と原子量の関係」と題して発表した。元素を原子量の順に並べると、性質に周期性が現れる。この周期性から、未発見の元素の存在も予言した。たとえば、アルミニウムに似た元素やケイ素に似た元素があるはずで、後にガリウムとゲルマニウムが発見された。発表当初は疑いの目で見る者も多かった。しかし、周期表に空欄を作って予言した場所に、1875年にガリウム、1879年にスカンジウム、1886年にゲルマニウムが次々と発見されて、正確さが確かめられた。数か月後にドイツのロータル・マイヤーも事実上同じ表を発表したが、未発見の元素の予測の質のよさから、メンデレーエフ単独の功績とみなされている。周期表のアイデアは、1869年2月17日に居眠りをして、夢のなかで元素が原子量の順に並んだ表を見たのがきっかけだと語られる。

1890年、学生の奨学金増額の要求を文部大臣デリャーノフに取り次いで拒否されると、抗議して大学を辞職した。その後は海軍省の依頼で無煙火薬を研究し、1891年までにピロコロジオンを発明した。1892年に王立協会の外国人会員に選ばれ、同年から度量衡局の所長を死去まで務めた。1875年には心霊術を信じた友人に対し、心霊現象究明委員会の設置を求めて、そのからくりをあばく仕事に乗り出した。1906年のノーベル化学賞に推薦されたが、一票の差でアンリ・モアッサンに敗れた。翌年の1907年1月20日(グレゴリオ暦2月2日)に死去した。101番元素メンデレビウムは彼の名による。

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