HISTORICAL PERSON · 1907年没

オスカル2世 (スウェーデン王)

スウェーデン王とノルウェー王を兼ねた国王。社会文化が成熟し産業革命が起きた時代に在位し、外交では中立政策をとった。

生涯
1907年没
死亡地
スウェーデン王国(ストックホルム県 / ストックホルム)
出生地
スウェーデン王国(ストックホルム)
出典
世界地図
スウェーデン王国(ストックホルム県)

伝記

オスカル2世は、1829年1月21日にストックホルムの王宮で生まれ、1907年12月8日に没した、ベルナドッテ王朝第4代のスウェーデン国王(在位1872年から1907年)およびノルウェー国王(在位1872年から1905年)である。オスカル1世の三男で、母は、ナポレオン1世の皇后ジョゼフィーヌの孫にあたるジョゼフィーヌであった。生まれたときにエステルイェートランド公となり、王位継承順位は父と兄たちに次ぐ第4位で、すぐに即位する見込みはなかった。11歳で海軍の士官候補生となった。その後ウプサラ大学で学んで数学に秀で、1848年12月13日にはスウェーデン王立科学アカデミーの名誉会員となった。1857年6月6日、ナッサウ公ヴィルヘルムの娘ソフィアと結婚し、4人の息子をもうけた。

1859年に父王が亡くなると、長兄のカール15世に嫡出の継承者がなかったため、推定相続人となった。1872年9月18日、カール15世が亡くなり、オスカル2世が国王となった。即位にあたって「兄弟民族の福祉」をモットーに掲げた。スウェーデン王としての戴冠式は1873年5月12日にストックホルムで、ノルウェー王としては同年7月18日にトロンハイムのニーダロス大聖堂で行われた。国王と宮廷は主にスウェーデンに住んだが、ノルウェー語を流暢に話せるよう努め、両国の連合を保つことの根本的な難しさを最初から理解していた。国王はスウェーデン語に習熟し、雄弁家として知られ、著書も発表した。この時代、スウェーデンの社会文化は成熟期を迎え、産業革命も起きた。外交では一貫して中立の政策を取り、19世紀ヨーロッパの帝国主義とは一線を画した。

鋭い知性と、王朝の思惑から距離を置く姿勢から、国際問題の仲裁者としても重みがあり、1889年にサモアの首席裁判官を任命した。1899年から1902年のボーア戦争では、大陸諸国の世論がほぼ英国に敵対的だったなかで、英国への支持を公に表明した。1876年に首相職が設けられ、1891年から1900年と1902年から1905年に首相を務めた保守派のボストレムを信頼して、閣僚の人選を任せたことは、議会主義への道を開いた。一方、ドイツとの結びつきは政府や国民の非難を浴び、スウェーデンでは民主主義が根づき始め、国王が外交に関わることを拒んだ。この時代はナショナリズムが高まり、スヴェン・ヘディンらが中央アジアへ向かい、ノルデンショルドは1879年に北東航路を通り抜けた。ノーベルによるノーベル賞の設立(1901年)も、国王の理解を得て行われた。

ノルウェーでは、1890年代に外交や内政でスウェーデンとの対立が顕著になり、自国の領事館の設置をめぐって両議会が対立した。国王はノルウェー議会の方針に反対し、スウェーデン議会は国王の支持を得て法案を拒否した。1905年に交渉が決裂し、ノルウェー議会が連合の解消を宣言して、国民投票でも圧倒的に独立が支持された。スウェーデン政府は反発して戦争の危機にまで至ったが、独立が避けられないと理解した国王は、議会と国民を説得し、同年9月に分離が合意された。国王が本心から了承したわけではなかったが、両国の安寧のためにやむなしと決断した。傷ついた老王のもとへ1万人のストックホルム市民が集まって王室歌を歌い、国王夫妻を慰めた。新しいノルウェー王には、大甥にあたるデンマークのカール王子が迎えられ、ホーコン7世と名乗った。1907年に78歳で没し、長男のグスタフ5世が継いだ。

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