伝記
エドガーは、1070年代に生まれたスコットランド王マルカム3世とマーガレットの子である。母はイングランドのウェセックス王家につながり、本人の名も母方の先祖であるイングランド王エドガーにちなむ。1093年、父と兄エドワードがアニックでの戦いで死去し、まもなく母も亡くなった。叔父ドナルド3世が王位を得ると、エドガーはイングランドへ逃れ、母方の叔父エドガー・アシリングとイングランド王ウィリアム2世の保護を受けた。1094年、異母兄ダンカン2世がイングランドの援助で即位したときには、その寄進状に名を記した可能性がある。しかし同年にダンカンが殺され、ドナルドが復位すると、再び亡命を余儀なくされた。
1095年、ノラムで作られたとされる文書では、父王からの相続と主君ウィリアム王の授与によって、ロージアンとスコットランド王国を持つと称した。文書自体の真正さには疑いもあるが、バーウィックやコルディンガム周辺の土地を聖カスバートに寄進したことは、ウィリアム王も確認している。1097年、ウィリアム2世の命を受けたエドガー・アシリングが軍を率いて進攻し、ドナルドを破った。エドガーはその支援を受け、イングランド王に従う立場でスコットランド王となった。捕らえられたドナルドは視力を奪われ、兄エドマンドも共同統治の座から退けられた。エドマンドは命こそ助けられたが、イングランドの修道院に閉じ込められた。
1098年、西方の島々へ遠征したノルウェー王マグヌス3世との間で和議を結び、ヘブリディーズ諸島やキンタイアに対するノルウェーの支配を認めた。マグヌスが船をターバートの地峡越しに運ぶことで、キンタイアも獲得したという話が伝わる。このような対外姿勢から、エドガーは平和を好む王と呼ばれた。1099年にはウェストミンスターの大広間完成を祝う席で、イングランド王の剣を捧げ持った。またロージアンに封土を与えていたウィンチェスターのゴドウィンの息子ロベールが、ダラム司教の家臣に捕らえられると、その釈放を取り付けた。ロベールは司教の土地に城を築こうとしたとされる。エドガーはその後、司教からバーウィックの伯領を取り上げた。
1100年、妹イーディスはマティルダと名を改め、ウィリアム2世の弟である新王ヘンリ1世と結婚した。エドガーはウィリアムに対したほど一方的に新王へ従ったわけではないが、この婚姻に介入した様子もない。教会への寄進は続き、1104年には聖カスバートの墓を開く儀式には出席しなかったものの、バーウィックシャーのスウィントンを与えた。寄進には牛24頭と、住民が毎年納める銀半マルクも含まれた。エドナムではトールという人物に土地を与え、開発と聖カスバートに捧げる教会の建設を支えた。1105年ごろ、トールはその一部をダラムの教会へ寄進した。母が創設したダンファームリンにも土地を与え、カンタベリーから修道士を招いた。
エドガーはエディンバラ城を王宮として用いた最初のスコットランド王とされる。生涯結婚せず、弟アレグザンダーを後継者に定めた。1107年1月8日、エディンバラ城で死去した。遺志に従ってアレグザンダー1世が王位に就いたが、王国の南部は末弟デイヴィッドに渡り、北部をアレグザンダーが治める形となった。
同じ年に亡くなった人物
- ライムンド・デ・ボルゴーニャ (1107年没)
- ジャヤーヴァルマン6世 (1107年)
- クルチ・アルスラーン1世 (1107年没)
- 米芾 (1107年没)
- 堀河天皇 (1107年没)
同じ地域に関係する人物
- William Adam (1748年没)
- チャールズ・バークラ (1944年没)
- ジョン・ハットン・バルフォア (1884年没)
- ジェームス・マッケンジー (1931年没)
- アーチボルド・キャンベル (第9代アーガイル伯爵) (1685年没)