伝記
堀河天皇は1079年に生まれた、白河天皇の第三皇子である。諱は善仁といい、母は中宮の藤原賢子であった。賢子は藤原師実の養女であり、同母姉の媞子内親王が准母を務めた。応徳三年十一月二十六日、西暦では1087年1月3日に、立太子と同じ日に父の譲位を受け、第七十三代天皇となった。数え八歳での即位である。これほど急いだ継承には、白河天皇が、自分の異母弟である輔仁親王へ皇統が移ることを避けようとした意向があったとされる。即位に伴い、それまで関白だった師実が摂政となり、幼い天皇を補佐して政治の実権を握った。
当初、白河上皇と師実は協調していた。上皇は院庁の人事を師実の人選に任せ、師実も摂政・関白を任命する権限を上皇に委ねていた。この時期の上皇は、自ら院政を行おうとはしていなかったという。天皇が成人し、関白が師実の子の師通に代わると、政治のあり方も変わった。師通は上皇の政務への関与に批判的で、天皇自身が政務を執ろうとする姿勢に協力した。そのため、天皇の親政に近い状態が生まれた。白河上皇も後見の役目を終え、媞子内親王の死を機に出家して、政治への意欲を失っていた時期であった。天皇は師通とともに朝政に力を注ぎ、世が穏やかに治まったと評された。
1099年、師通が急死すると、この体制は続かなくなった。後を継いだ若い藤原忠実は、天皇の政務を十分に補佐することができず、天皇は白河法皇に相談するようになった。法皇は師実以来の関係によって摂関家にも強い影響力を保っており、ここから白河法皇の院政が成立した。法皇の政治関与が強まるにつれ、天皇の関心は学問や和歌、管絃へ向かった。中宮の篤子内親王は天皇の叔母に当たり、十九歳年長で、天皇はその薫陶を受けた。上品で誠実な人柄によって宮廷の人々に慕われたといい、横笛にも秀でていた。夜の御殿の壁に笛の譜を貼って覚えるほど熱心で、忠実もその腕前を比類がないと称賛した。
1102年には「堀河院艶書合」を主宰し、歌人たちに恋の歌を詠ませた。また、評判の歌人十四人に百首の和歌を詠ませて「堀河百首」を編んだ。これは組題百首の始まりとされる。篤子内親王との間には子がなく、白河院の差配によって、院の従妹である藤原苡子が女御となった。1103年、苡子との間に宗仁親王が生まれたが、苡子は出産後まもなく亡くなった。このため宗仁親王は白河院に引き取られ、そのもとで養育された。同年には藤原宗子との間に寛暁が、1105年には藤原時経の娘との間に最雲法親王が生まれている。
天皇は生来病弱で、1107年8月9日、在位のまま崩御した。満二十八歳、数え二十九歳であった。臨終に仕えた典侍の藤原長子は、その様子を『讃岐典侍日記』に詳しく記した。長子は乳母の藤原兼子の妹である。皇位は宗仁親王が継ぎ、鳥羽天皇となった。天皇自身の日記は現存しないが、翌1108年の鳥羽天皇の大嘗会に関する『江記』の記事には、「先皇御記」として言及されている。和歌は『金葉和歌集』などの勅撰集に九首が入った。陵は京都の龍安寺にある後円教寺陵とされ、一条天皇陵と同じ朱山に位置する。
皇居の皇霊殿でも、歴代天皇や皇族とともにその霊が祀られている。
同じ年に亡くなった人物
- 米芾 (1107年没)
- クルチ・アルスラーン1世 (1107年没)
- 程頤 (1107年没)
- ジャヤーヴァルマン6世 (1107年)
- ライムンド・デ・ボルゴーニャ (1107年没)
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