伝記
源義家は、源頼義の長男として長暦三年(一〇三九年)に生まれたとされる武将である。母は平直方の娘であった。河内国壺井の館で生まれたとされるが、鎌倉や京都などを出生地とする異説もある。幼名は不動丸、または源太丸といい、七歳で石清水八幡宮で元服したため八幡太郎と称したという。父に従って前九年の役に参加し、天喜五年(一〇五七年)の黄海の戦いでは大敗を経験した。その後、頼義は出羽の清原氏の援軍を得て安倍氏を破った。義家は康平六年(一〇六三年)に従五位下、出羽守となり、翌年には越中守への転任を願ったが、認められたかは不明である。この年には美濃で源国房と戦っている。
延久二年(一〇七〇年)には下野守であり、陸奥で国の印と国庫の鍵を盗んだ藤原基通を捕らえた。承暦三年(一〇七九年)には官命によって源重宗を追討した。永保元年(一〇八一年)には園城寺の僧を追捕し、白河天皇の石清水八幡宮行幸を、弟義綱と郎党を率いて護衛した。当時は本官がなかったため、関白藤原師実の前駆という名目で加わった。帰路が夜になると、正式の装束から動きやすい布衣に着替え、弓矢を帯びて天皇の乗り物のそばを守った。藤原為房は、布衣の武士によるこのような随従は聞いたことがないと記した。同年の春日社行幸では、甲冑と弓矢を備えた百人を率いて警護した。
永保三年(一〇八三年)に陸奥守となり、清原氏の内紛へ介入して後三年の役を始めた。郎党のほか、陸奥南部の兵や藤原清衡、出羽の吉彦秀武らの軍が加わったとされ、終盤の主要な作戦は秀武が立てた。この戦争には朝廷の追討命令がなく、寛治元年(一〇八七年)七月には、朝廷が戦闘停止の使者を送ることを決めた。同年十一月、義家は出羽の金沢柵で清原武衡と家衡を破り、十二月の報告で、事後の追討官符を求めた。しかし朝廷は認めず、私戦として恩賞を与えなかった。翌年正月には陸奥守を罷免された。戦争中は政務を止めて兵の準備に専念したため、陸奥から納めるべき官物も滞ったとみられる。未納の官物は後年まで催促され、新たな任官に必要な審査を通れない状態が続いた。
戦後、義家には田畠の寄進が集まったが、その土地をめぐる家臣同士の争いが、義綱との対立に広がった。寛治五年(一〇九一年)六月、朝廷は兄弟の武装入京を禁じ、諸国の人々が義家へ田畠を寄進することも禁止した。義綱が陸奥守や美濃守に進む一方、義家の官位は据え置かれた。承徳二年(一〇九八年)正月に旧任国の官物を完納し、白河法皇の意向もあって審査を通過した。四月に正四位下へ進み、十月には院への昇殿を許された。ただし、この引き上げには家格を重んじる公卿から不満も出た。
康和三年(一一〇一年)、次男義親が九州で告発され、義家は召還を命じられた。派遣した郎党首藤資通は翌年、義親とともに召問の役人を殺し、義親の隠岐配流と資通の投獄が決まった。長治元年(一一〇四年)には義綱とともに延暦寺の僧を追捕した。嘉承元年(一一〇六年)には四男義国が叔父義光らと常陸で戦い、義家は義国を差し出すよう命じられた。そのさなかの七月十五日、六十八歳で死去した。家督は三男義忠が継ぎ、河内源氏の棟梁となった。
同じ年に亡くなった人物
- ジョフロワ4世 (アンジュー伯) (1106年)
- ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝) (1106年没)
- マグヌス (ザクセン公) (1106年没)
- ユーグ・ド・フォコンベルグ (1106年没)
- ダゴベルト (1106年(推定))
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