伝記
マグヌスは、一〇四五年ごろに生まれた、ビルング家のザクセン公である。父は公オルドルフ、母はノルウェー王オーラヴ二世の娘ヴルフヒルトで、長男として育った。ブレーメン大司教アーダルベルトと激しく敵対し、大司教の領地に繰り返し略奪を加えた。一〇七〇年、バイエルン公オットー・フォン・ノルトハイムがハインリヒ四世に反抗すると、マグヌスもこれに加わった。オットーは王の暗殺計画への関与を疑われ、告発者との決闘による裁判を命じられたが、往復の安全を保証されなかったため出頭せず、公位を奪われていた。
反乱は一〇七一年に鎮められ、マグヌスは捕らえられてハルツブルク城に投獄された。この年、ハンガリー王ベーラ一世の娘ゾフィーと結婚した。一〇七二年、父の死によってザクセン公位を継いだ時にも、なお拘禁されていた。解放は翌年のザクセン反乱中の捕虜交換によって実現し、その交換にはリューネブルクで捕らえられた七十人のシュヴァーベン人の釈放がかかわっていた。ハルツブルクの要塞や教会はザクセン側に破壊され、王の怒りを招いた。一〇七四年にいったん和睦したものの、戦いは再び起こり、一〇七五年の戦闘でマグヌスはまた捕虜となった。
再度の釈放後、マグヌスはシュヴァーベン公で対立王となったルドルフ・フォン・ラインフェルデンの側に立った。一〇七八年八月七日のメルリッヒシュタットの戦いでは、ルドルフの命を救ったとされる。ただし、マグヌスとザクセン人はこの対立王を全面的に支持し続けたわけではなく、やがてハインリヒ四世と和解した。王の軍とともに、ザクセン東方のスラヴ勢力とも戦った。一〇九三年にはアボドリート人の君主ハインリヒと兵を合わせ、異教の諸部族に対する戦闘を行った。妻ゾフィーは一〇九五年に死去した。
マグヌスは一一〇六年八月二十三日、ラウエンブルク近くのエルテネブルク城で死去した。男子の後継者がおらず、ビルング家による公位の継承は終わった。ザクセン公にはロタール・フォン・ズップリンブルクが任じられ、後に皇帝となった。一方、ビルング家のリューネブルク周辺やエルベ川沿いの私領は、二人の娘を通じて分かれた。ヴルフヒルトはバイエルン公ハインリヒ九世と結婚しており、その系統を通じてヴェルフ家へ半分が渡った。もう半分は、バレンシュテット伯オットーの妻アイリカを通じ、アスカーニエン家に移った。後にザクセン公位を争うハインリヒ傲岸公とアルブレヒト熊公は、いずれもマグヌスの外孫であった。
同じ年に亡くなった人物
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- 源義家 (1106年没)
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