伝記
バルカンのパラスケヴァは、十一世紀に禁欲的な修道生活を送った女性の聖人で、ペトカの名でも知られる。コンスタンティノープルに近い、マルマラ海岸の町エピヴァテスに生まれた。現在のイスタンブール近郊のセリムパシャにあたる。両親は裕福な地主であった。幼いころ教会で、自分を捨てて十字架を負い、キリストに従うよう求める言葉を聞いたことが、その後の生き方を決めたと伝えられる。高価な衣服を貧しい人に与え、コンスタンティノープルへ逃れた。両親は娘が禁欲と信仰の道を選ぶことを認めず、各地の町を捜したという。
パラスケヴァは小アジアのカルケドンへ移り、次いでビテュニアのヘラクレア・ポンティカにある聖母の教会で暮らした。厳しい生活を送り、聖母マリアの幻を見たとされる。さらにエルサレムへ旅をし、そこで生涯を終えたいと望んだが、聖地を訪れた後はヨルダン川近くの砂漠の女子修道院に入った。二十五歳の時、天使が現れて故郷へ戻るよう告げたという。コンスタンティノープルに戻った後、その西方のカリクラテイア村に落ち着き、聖使徒教会で最後の二年間を過ごした。死去したのは二十七歳の時とされる。村のあった場所は、東トラキアのミマルスィナンと呼ばれる地区にあたる。
死後長く忘れられていた墓の近くに、罪深い老人が埋葬されたという伝承がある。パラスケヴァは土地の修道士の夢に現れ、清くない隣人について訴え、自分が葬られている場所を知らせたとされる。掘り出された遺体には腐敗が見られず、その遺物はカリクラテイアの聖使徒教会へ移されたという。その後、遺物は地域の複数の教会を移動した。一二三八年には、第二次ブルガリア帝国の首都ヴェリコ・タルノヴォへ運ばれた。ブルガリアでは「タルノヴォの聖ペトカ」として崇敬され、十四世紀になると、その信仰はワラキアやモルダヴィアへ広がった。
信仰が広まる過程では、同名の別の聖女や、スラヴのキリスト教以前の神々との混同も起こった。パラスケヴァというギリシア語の名は、安息日の準備にあたる金曜日を意味し、セルビア語やルーマニア語などでは「聖なる金曜日」と直訳された。この呼び名が、似た名を持つ民話の存在と結び付けられたのである。とくにイコニオンの殉教聖女パラスケヴィや、金曜日に関係するペトカ、ピャトニツァ、ジヴァなどの神格との混同によって、聖女の属性や同一性が入り交じった。東方正教会では十月十四日を記念日としている。
遺物は一三九三年にベオグラードのルジツァ教会へ移され、一五二一年に同市がオスマン軍に陥落するとコンスタンティノープルへ運ばれた。一六四一年にはモルダヴィアのヤシにある三聖人修道院へ、一八八八年には同市の府主教座聖堂へ移された。一九四六年から翌年にかけてモルダヴィアが深刻な干ばつに見舞われると、府主教ユスティニアン・マリナは遺物を納めた棺の巡行を許可した。棺は干ばつに苦しむヤシ、ヴァスルイ、ロマン、バカウなどの地域の村々を巡った。その際に集まった奉納物は、府主教の決定によって孤児や寡婦、身体の不自由な人々、学校の食堂、建設中の教会などに配分され、修道院では病気や老齢の修道士を養うためにも使われた。
同じ年に亡くなった人物
- ゲオルギオス・ケドレノス (1100年没)
- Leo of Ohrid (1100年没)
- Goffredo Malaterra (1100年没)
- のっぽのトルケル (1100年(推定))
- 紫式部 (1100年(推定))
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