HISTORICAL PERSON · 紀元前227没

Ziaelas of Bithynia

ビテュニアの第3代王。父ニコメデス1世の死後、継母の摂政に王位を阻まれて亡命し、ガラティア人の助けを得て戻り、権利を取り戻そうとした。

生涯
紀元前227没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ジアエラスは、ビテュニアの第3代の王である。紀元前265年ごろに生まれ、紀元前254年ごろに王位に就き、紀元前228年ごろまで在位したとされる。ニコメデス1世と最初の妻ディティゼレの子で、父の長男にあたる。没年は紀元前227年とする記述もある。

父ニコメデス1世は、二番目の妻エタゼタとの間に生まれた幼い息子たちを後継者に定め、ビュザンティオン、ヘラクレイア、キオスの市民にその保護を託したとされる。摂政にはプトレマイオスとアンティゴノスが選ばれたともいわれる。長男でありながら継承から外されたジアエラスは、継母の策謀に苦しんだとも伝えられ、父の死の前にアルメニアへ逃れ、ソフェネの王アルサメス1世の宮廷に身を寄せたとされる。この王は、別の説ではサモスという名で呼ばれる。

父の死後、ジアエラスは直ちに自分の権利を力で取り戻そうとし、ガラティア人の助けを得て帰還した。エタゼタは近隣の諸都市やマケドニア王アンティゴノス2世ゴナタスに支えられていたが、ジアエラスは短期間でビテュニアを征服し、紀元前254年ごろ、エタゼタとその息子たちはアンティゴノスの宮廷へ逃れた。弟で競争相手の一人を排除して王位に就いたと伝えられる。ただし異説では、この戦いはビテュニアの貴族とヘラクレイア、ビュザンティオン、キオスの連合を相手にしたもので、ジアエラスはガラティア人の助けでこれを破り、紀元前254年に最終的な勝利を収めたとされる。地位を固めるため、実の妹リュサンドラと結婚したとされる。外交では、マケドニアと対立するエジプトのプトレマイオス2世と友好関係を結び、ガラティア人傭兵に頼り続けて、その費用は小アルメニアの王から得たという。これがポントス王アリオバルザネス1世の不満を招き、王の死後の紀元前250年には、ジアエラスの教唆でガラティア人が新王ミトリダテス2世の領地を攻めたとされる。さらにポントスの同盟都市ヘラクレイアの征服を図ったが、キオスとビュザンティオンがこれを支援した。これに対抗してセレウコス朝のアンティオコス2世と同盟し、その死後の紀元前246年ごろからはエジプトに軸足を移して、プトレマイオス3世と同盟を結んだ。

王となったジアエラスは、セレウコス朝の兄弟戦争の時期に、アンティオコス・ヒエラクスを攻撃して小アジアを手に入れようとした。しかし後に両者は同盟を結び、紀元前245年ごろに生まれたジアエラスの娘がヒエラクスの妻となった。この結婚は紀元前235年のこととする説もあり、ビテュニアの王国暦はこの結婚の年から数えられたという。そのほか、ミュシアのオリュンポスの南西にあるアブレッテネを従え、ゼウス・パンデモスをたたえる競技会を創設したという。この動きはペルガモン王国との対立を招き、ペルガモンのアッタロス1世とも戦ったが、紀元前230年から229年にかけてはペルガモンに敗れたともされる。父と祖父にならって自らの名を冠した都市ジアエラも建てたが、その位置は分かっていない。

ジアエラスの最期については、はっきりしない。ガラティア人を雇って用いていたが、その首領たちに陰謀の疑いを抱き、盛大な宴に招いて皆殺しにしようと企てたところ、計画を察知した首領たちに先を越され、食卓で喉を切られて殺されたと伝えられる。一方、遠征の途中で死んだとも、ペルガモンやガラティア人との戦いで倒れたともいわれる。王位は、息子のプルシアス1世が継いだ。ジアエラスの名を刻んだ貨幣もいくつか残っている。

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