伝記
バシレイオス・ボイオアネスは、11世紀前半に南イタリアで活動したビザンツ帝国の将軍である。イタリアではブジャーノとも呼ばれる。1017年12月、皇帝バシレイオス2世によってイタリアのカテパノ、すなわち帝国の現地統治を担う高官に任命された。当時はバーリのロンバルド人指導者メルスが反乱を起こし、その軍にはノルマン人の兵士も加わっていた。ボイオアネスは着任すると直ちにコンスタンティノープルへ援軍を求め、皇帝の精鋭であるヴァリャーグ親衛隊の一部が派遣された。両軍はオファント川沿いのカンナエ付近で戦い、ボイオアネスが決定的な勝利を収めた。古代にハンニバルがローマ軍を破った場所でのこの戦いは、第2のカンナエの戦いとも呼ばれる。
勝利の後、アプリア平野への入口を押さえるアペニン山脈の峠に、大きな要塞を築いた。小アジアの古代都市にちなんでトロイアと名づけられたこの拠点には、1019年、ボイオアネス自身が率いるノルマン人部隊が守備兵として置かれた。南イタリアでは帝国の権威が広く回復したが、ベネヴェント公国は教皇側への忠誠を保った。この情勢を警戒した教皇ベネディクトゥス8世は、1020年に北へ向かい、バンベルクで神聖ローマ皇帝ハインリヒ2世と会談した。皇帝はその場では軍事行動を起こさなかったものの、翌年の事件を受けて介入へ向かった。
1021年、ボイオアネスは新たに同盟したカプア公パンドルフォ4世とともに、メルスの義兄弟ダットゥスを攻撃した。ガリリャーノ川沿いの塔を奪い、ダットゥスを捕らえたのである。6月15日、捕虜は鶏や蛇などとともに袋に入れられ、海へ投げ込まれた。翌1022年、ハインリヒ2世の大軍が南下し、トロイアの要塞を攻撃した。しかし守備隊は持ちこたえ、降伏することはなかった。ボイオアネスは、その忠誠に報いるためトロイアに特権を与えた。
1025年にはバシレイオス2世とともにシチリア遠征を行う準備を進めていたが、皇帝が死去した。共同皇帝で後継者となったコンスタンティノス8世は計画を中止した。そこでボイオアネスは北へ向かい、パンドルフォ4世によるカプア奪回を援助した。カプアは先の皇帝軍の遠征で奪われ、別のパンドルフォが公位についていた。ボイオアネスはこのテアーノのパンドルフォに、ナポリまで安全に退くことを認め、1026年5月に降伏を受け入れた。これが最後の大きな遠征となり、1027年にはコンスタンティノープルへ召還された。その後の生涯と没年は明らかでない。1041年には息子エクサウグストスもイタリアのカテパノとなったが、在任は1年に満たなかった。後継の統治者たちは父の軍事的な成果を十分に維持できず、続く時代にイタリアでの帝国の勢力は衰えていった。
同じ年に亡くなった人物
- 紫式部 (1100年(推定))
- 哲宗 (宋) (1100年没)
- クレメンス3世 (対立教皇) (1100年没)
- ナローパ (1100年没)
- エドマンド・オブ・スコットランド (1100年)
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