伝記
ジュール・ガブリエル・ヴェルヌは、1828年2月8日、フランス西部のナントで生まれた小説家である。H・G・ウェルズ、ヒューゴー・ガーンズバックとともにSFの開祖として知られ、SFの父とも呼ばれる。家はロワール川の中州の一つフェイド島にあり、子供時代はほとんどこの地で過ごした。人里離れた環境が彼の想像力と兄弟の絆を育んだとされる。当時のナントは交易が盛んな異国情緒豊かな港町で、訪れる船乗りたちの冒険譚は彼の冒険心をかきたて、海の英雄になることを夢見たという。父ピエールは地元の弁護士で論理的な人物だった。自宅から事務所までの歩数を知っていたことや、望遠鏡で教会の時計を確かめて行動したことが逸話として残り、こうした性格は『月世界旅行』のバービケインなど作中の人物に受け継がれた。母ソフィーは船乗りの家系の出で、ヴェルヌに「まるで竜巻のよう」とたとえられるほどの想像力の持ち主だった。5人兄弟の長男で、海に憧れる弟のポールと特に仲がよく、ポールは後に海軍に入った。長男の彼は父の後を継ぐため法律を学び、ナントのリセに通った。成績は普通だったが、ラテン語に優れ、数学も好きで、運動も得意だったため、「広場の王様」とあだ名されたという。
11歳のとき、初恋の相手の従姉カロリーヌに珊瑚の首飾りを買ってやろうと、密かに水夫見習いとしてインド行きの帆船に乗り込んだが、途中で父に見つかった。「もうこれからは、夢の中でしか旅行はしない」と語ったとする逸話もある。元船乗りの親戚プリュダン・アロットと鵞鳥のゲームをするのが楽しみで、この人物は『征服者ロビュール』にアンクル・プルーデントとして登場する。
1848年、父の勧めでパリの法律学校へ進んだ。息子の才能を見た母が親戚に取り計らい、多くの芸術家と交流した。金銭面では余裕のない生活だったが、アレクサンドル・デュマ父子と出会い、劇作家を志すようになった。1849年に書き、大デュマがプロデュースした処女作の戯曲『折れた麦わら』は好評で、2週間上演された。この時期には詩を書き、喜劇やオペラなど30編以上の戯曲を書いたが、大半は上演されなかった。一方で自然科学の論文も読み、小説に科学的事実を取り入れて真実味を持たせるポーの技法に関心を深めていった。友人のフェリックス・ナダールが製作した気球に触発されて1863年に書いた冒険小説『気球に乗って五週間』が大評判となり、流行作家になった。編集者ジュール・エッツェルと契約を結び、以後、生涯にわたり科学・冒険小説の傑作を書き続けた。『地底旅行』『月世界旅行』『海底二万里』『八十日間世界一周』『神秘の島』などがある。
1883年にアミアン市会議員に当選し、死ぬまで在職した。晩年には甥のガストンに拳銃で脚を撃たれ、以後は足を引きずるようになり、悲観主義的な傾向が強まったといわれる。ただ、近年見つかった初期の作品『二十世紀のパリ』に文明批判がうかがえることから、悲観的な面は当初からあったとも見られる。平和主義者・進歩主義者として知られ、ナポレオン3世にはつねに批判的で、被圧迫民族の解放の擁護者でもあり、ネモ船長のような「虐げられた民族」が作品に登場する。1900年に白内障を患い、糖尿病も悪化して、1905年3月24日にアミアンの自宅で死去した。日本には1878年に川島忠之助が『八十日間世界一周』の前編を翻訳刊行して初めて紹介された。
同じ年に亡くなった人物
- フレデリック・セシジャー (第2代チェルムスフォード男爵) (1905年没)
- Janko Veselinovic (1905年没)
- アマリア・デル・ピラール・デ・ボルボーン (1905年没)
- レイモンド・フェルナンデス・ヴィラヴェルデ (1905年没)
- オットー・シュトルツ (1905年没)
同じ地域に関係する人物
- ラウル (ロレーヌ公) (1346年没)
- アンヌ・ド・ピスルー・デイリー (1580年没)
- シャルル3世 (西フランク王) (929年没)
- アデル・ド・フランス (ヴェクサン女伯) (1220年代没)
- ジャン=ルイ・ド・ランビュール (2006年没)