伝記
ペタル・スナチッチは、11世紀末のクロアチアで王位を主張し、ハンガリー王家と争った領主である。ペタル・スヴァチッチとも呼ばれるが、その家名や前半生は確かではない。スナチッチ家はクロアチアの十二の貴族氏族の一つであり、ペタルもこの家に属していた可能性があるとされる。ドミタル・ズヴォニミル王に仕えたバン、すなわち総督のペタルと同一人物とも考えられているが、確実な同定には至っていない。別の王位請求者ペタル・スラヴェンと結びつける説もあるものの、その関係も明らかではない。
ズヴォニミルの後を継いだステパン2世は、1091年に後継者を残さず死去した。トルピミロヴィチ家最後の王の死によって、クロアチアは王位継承をめぐる深刻な対立に入った。ズヴォニミルの未亡人イェレナは、兄であるハンガリー王ラースロー1世の王位請求を支持した。ラースローは同年にクロアチアへ侵攻し、グヴォズド山に至って地元の貴族と戦った。しかし、クロアチアの高官や聖職者のすべてがハンガリー王の継承を認めたわけではなかった。王国内には別の支配者を求める勢力があり、そのなかからペタルも王位を唱えるようになった。
ペタルは1093年ごろに王となったとされ、ダルマチア側の支持も受けたという。クロアチアの領主たちによって選ばれたとも、自ら王を称したともいわれ、正式な戴冠を行ったかどうかは分かっていない。権力の拠点はクニンに置かれ、支配の範囲はクロアチア中部に限られていた可能性がある。教皇ウルバヌス2世はペタルを反逆者とみなし、ハンガリー側に排除を求めたとされる。1095年にラースローが死ぬと、その甥カールマーンがクロアチアへの軍事行動を引き継いだ。ペタルの王位請求は、ハンガリーの新王との戦争へ続いていった。
1097年、ペタルはクニンを出発し、グヴォズド山でカールマーンの軍と対決した。この戦いはハンガリー側の勝利に終わり、ペタルも戦死した。クロアチア出身の最後の王とされる。1102年にはカールマーンがクロアチアで戴冠し、アールパード家がクロアチアとダルマチアの王位を担った。クロアチア側が王として承認する代わりに、バンのもとでの自治や従来の法と権利を保証する合意が結ばれたともいうが、この合意の真正性には議論がある。その後のクロアチアとハンガリーの同君連合は1918年まで続いた。
同じ年に亡くなった人物
- アルベルト・アッツォ2世・デステ (1097年没)
- マルパ・ロツァワ (1097年没)
- 献宗 (高麗王) (1097年没)
- ルノー2世 (ブルゴーニュ伯) (1097年)
- ニザール・ブン・アル=ムスタンスィル (1097年)
同じ地域に関係する人物
- Mladen Ramljak (1978年没)