伝記
テオドール・ヘルツルは、1860年5月2日に、ハンガリー(当時はハプスブルク帝国の一部)のブダペストで生まれたユダヤ人のジャーナリストで、「近代シオニズムの父」として知られる。裕福な家庭の生まれで、両親はクロアチアの出身だったとされる。1878年にプロテスタント系のギムナジウムを卒業した後、18歳でウィーンに移り、ウィーン大学で法律、ジャーナリズム、文学を学んだ。ウィーンでは短い期間、法律家としても働いた。当初のヘルツルは、コスモポリタン的なドイツ文化の教養を身につけ、高尚な貴族文化に憧れる穏健な教養人であり、同化主義者でもあった。ウィーンの自由主義的な新聞『ノイエ・フライエ・プレッセ』の記者となり、1891年からは特派員としてパリで暮らした。
パリでユダヤ人に対する偏見を目にし、なかでも1894年に起きたドレフュス事件は、生涯の一大転機となった。取材を通じて、反ユダヤ主義がなお根強いことにショックを受けたうえ、同化主義の限界を痛感したのである。一方、1893年に、キリスト教社会党の党首で反ユダヤ主義を主張するカール・ルエーガーがウィーン市長に選ばれたことにも衝撃を受けた。彼は日記に、ユダヤ人のあいだには一種の絶望感が漂っていると記している。東ヨーロッパでのユダヤ人迫害(ポグロム)や、オーストリアにおけるルエーガーやシェーネラーによる反ユダヤ主義的な大衆運動に接して、態度が鮮明になったといわれる。モーゼス・ヘスの影響も受けたとされる。
その後、ロシアを含むヨーロッパ各地で萌芽状態にあったシオニズム運動をまとめて、一つの政治運動へ統合する過程で、中心人物となった。シオニズムそのものは彼の独創ではないとされるが、ひとつの民族としてのユダヤ人が、自前の国家を建設することによって、ユダヤ人の問題を解決するという考え方を、明確に提示した。1896年には、シオニズム運動の先駆となる著作『ユダヤ人国家』を出版し、国家像と建設の計画を詳細に述べた。翌1897年、スイスのバーゼルで第1回シオニスト会議を開いた。各国のユダヤ評議会が選んだ代表200人が参加し、彼の威厳ある立ち居振る舞いは、「ユダヤ人の王」とさえ呼ばれるほどだったという。彼はシオニスト機構を結成し、ドイツ皇帝やオスマン帝国のスルタンに働きかけたが、成功しなかった。1903年の第6回会議では、ウガンダ案を示した。
小説『古くて新しい国』(1902年)の冒頭には、「もしあなたが望むなら、それはお伽噺ではない」と書き、ユダヤ人国家の建設を主張した。建設地は、聖地エルサレムのあるパレスチナにこだわらず、南アメリカのアルゼンチンや、アフリカのウガンダも候補にしていた。1904年7月3日、心臓病により44歳で死去したが、その遺志は多くのユダヤ人に受け継がれた。彼はイスラエルの独立宣言にも名が挙げられ、公式に「ユダヤ人国家の精神的な父」と呼ばれる。1968年発行の旧紙幣から、1978年発行の旧10シェケル紙幣まで、肖像が使われた。ライフ誌が1999年に選んだ、この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人にも選ばれている。
同じ年に亡くなった人物
- エルンスト・ツー・ライニンゲン (1904年没)
- エマヌエル・ドレーク・デル・カスティリョ (1904年没)
- ジョージ・フレデリック・ワッツ (1904年没)
- ミルティアデス・ゴウスコス (1904年没)
- アバイ・クナンバイウル (1904年没)
同じ地域に関係する人物
- エドゥアルト・ハンスリック (1904年没)
- オルガ・ヴィジンガー=フローリアン (1926年没)
- マルガレーテ・フォン・バーベンベルク (1266年没)
- アントワーヌ・シャルル・ルイ・ド・ラサール (1809年没)
- ヨハン・ゲオルク・ヒードラー (1857年没)