HISTORICAL PERSON · 1875年没

フェルディナント1世 (オーストリア皇帝)

オーストリア皇帝で、ハンガリー国王としてはフェルディナーンド5世。「善良帝」と呼ばれた。病弱で統治の実権は宰相メッテルニヒが握り、1848年の3月革命で退位を余儀なくされた。

生涯
1875年没
死亡地
チェコ共和国(プラハ)
出生地
オーストリア共和国(ウィーン)
出典
世界地図
チェコ共和国(プラハ)

伝記

フェルディナント1世は、1793年4月19日に生まれ、1875年6月29日にプラハで没したオーストリア皇帝(在位1835年3月2日-1848年12月2日)である。ハンガリー国王としてはフェルディナーンド5世と称した。「善良帝」と呼ばれる。最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世と、その皇后で両シチリア国王フェルディナンド1世の長女マリア・テレジアの長男として生まれ、姉にナポレオン1世の皇后マリア・ルイーザがいる。1804年にオーストリア帝国が成立すると、ハプスブルク家史上初めての皇太子となった。生後半年で、大叔母にあたるフランス王妃マリー・アントワネットが処刑され、きょうだいとともにフランス革命とナポレオンを憎む環境で育てられた。1807年に母を亡くし、翌年に父は再婚した。

生まれつき非常に病弱で、曽祖父母が通常の8人ではなく4人しかいないという血統の集中があり、おそらくは近親婚が原因とされる。最も彼を悩ませたのはてんかんの発作で、しばしば意識を失った。文字を書くのを覚えるのも遅く、学業は振るわなかった。結婚も不可能と考えられていた。このため帝位継承は危ぶまれたが、相続順位法を守ろうとした保守的な父フランツ1世と、病弱な皇帝を戴いて実権を握り続けようとした宰相メッテルニヒの思惑が一致し、次期皇帝となることが確実になった。1830年9月28日、プレスブルクでハンガリー国王およびクロアチア国王として戴冠した。1831年にサルデーニャ国王の三女マリア・アンナを妃に迎えたが、これは世継ぎを期待してのものではなく、次期皇帝としての体裁を整えるためであった。二人に子はなく、マリア・アンナは夫の看護に専心し、その敬虔さと品位で尊敬されたという。

1832年は生涯最悪の年といえる。8月9日にバーデン・バイ・ウィーンで肩を狙撃され、ショックで一時的に心停止に陥った。狙撃犯は死刑判決を受けたが、フェルディナントは父帝に掛け合って終身刑に減刑させた。クリスマスの頃には極めて深刻な発作を起こし、12月19日に終油の秘蹟を授けられるほどになったが、持ちこたえた。1835年3月2日に父帝が崩御して帝位に即き、1836年にはプラハでボヘミア国王、1838年にはミラノでロンバルド=ヴェネト国王として戴冠した。プラハでの戴冠は、聖ヴィート大聖堂で行われた最後のものである。メッテルニヒは補佐機関として、新帝の叔父、伯爵、新帝の弟フランツ・カール大公と自身からなる秘密国家会議を設置した。宰相が差し出す書類に署名することが、統治のほぼ全てだったとされる。

1848年に3月革命が起こると、メッテルニヒを罷免し、馬車で検閲の廃止や出版の自由を約束して回り、ウィーンの民衆に歓呼で迎えられた。しかし革命運動は次第に先鋭化し、最終的には退位を余儀なくされた。首相シュヴァルツェンベルクが、弟の妃ゾフィーらの助けを借りて退位を説得したとされ、これは「婦人たちの陰謀」と呼ばれる。弟フランツ・カール大公が帝位継承を辞退したため、その長男フランツ・ヨーゼフが帝位に即いた。退位後はプラハ城を居城とし、27年間生き続けて、82歳で崩御した。遺骸はウィーンのカプツィーナー納骨堂に葬られた。

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