伝記
ジャムシェトジー・ヌッセルワンジー・タタは、1839年3月3日に、イギリス領インド帝国のボンベイ管区のナヴサリで生まれた実業家、慈善家で、タタ・グループの創業者である。「インド産業の父」と称される。タタ家はパールシーと呼ばれるゾロアスター教徒の家系で、父ヌッセルワンジーは、家業の慣習から離れて商業に従事した人物だった。14歳のとき、父のいるボンベイに移り、エルフィンストン・カレッジで学んだ。1858年に卒業すると、父の事業に加わり、商業や貿易の経験を積んだ。29歳の1868年、2万1,000ルピーの資本金で自身の貿易会社を設立し、これが後のタタ・グループの起源となって、持株会社のタタ・サンズに受け継がれた。
1869年には、ボンベイのチンチポクリの経営破綻した製油所を買収し、綿紡績工場「アレクサンドラ・ミル」に転換した。その後、この工場を売って得た資金をもとに、1874年、ナーグプルに会社を設立した。1877年には、ヴィクトリア女王がインド女帝を称したことにちなんで、この工場をエンプレス・ミルと名づけた。綿工業の中心地であったボンベイではなくナーグプルに工場を建てたことは、大胆な決断と受け止められたが、原料の調達や交通の便を考えた立地選定であり、のちに成功した。1878年にはボンベイにスワデーシー・ミルを設立した。「スワデーシー」は「自国のもの」を意味し、インド人の手による近代産業の育成という理念を反映していた。最新の紡績設備を導入するとともに、従業員の福利厚生や労働環境の改善にも取り組んだ。海運にも関心を示し、1890年代に、イギリスの大手が優位にあった海上輸送市場への参入を試みた。1894年には、日本郵船から貨物船2隻を借り受けて、日本向けの綿花輸送を行おうとしたが、相手側が大幅な運賃引き下げなどで対抗したため、継続は困難となった。
彼は、インドの近代化には、重工業、科学技術、インフラ、ホスピタリティの発展が不可欠だと考え、生涯を通じて四つの構想を掲げた。製鉄所の建設、水力発電事業の開発、世界水準の高等教育・研究機関の設立、国際水準のホテルの建設である。すべての完成を見ることなく1904年5月19日に死去したが、構想は後継者らに受け継がれた。製鉄所は、1880年代から鉄鉱石や石炭などの資源調査を進めていたもので、長男ドラブジーらによって、1907年にタタ鉄鋼会社が設立され、現在のタタ・スチールへ発展した。水力発電は、西ガーツ山脈の豊富な水資源を利用し、ボンベイの工場だけでなく、学校や病院、家庭にも電力を供給して、都市の発展を支えることが目的だった。1915年にコポリ水力発電所が運転を始め、現在のタタ・パワーへ発展している。
ホテルの構想は、1898年にボンベイで建設が始まったタージマハル・ホテルとして実現した。1903年12月に開業し、当時のインドでは電灯やエレベーターなどの最新設備を備えた先進的なホテルであった。彼は開業の翌年に死去したが、ホテルは今もグループを代表する存在である。高等教育・研究機関についても、1898年に自らの資産を寄付して研究大学の設立を提唱しており、構想は没後の1909年にインド理科大学院となった。彼の築いた事業基盤と理念は、タタ・サンズを通じて継承され、現在のタタ・グループの発展につながった。
同じ年に亡くなった人物
- エティエンヌ=ジュール・マレー (1904年没)
- アレクサンドリーネ・フォン・バーデン (1904年没)
- ジャン=レオン・ジェローム (1904年没)
- クロード・ボーズ=ライアン (第13代ストラスモア=キングホーン伯爵) (1904年没)
- パウリーネ・フォン・ザクセン=ヴァイマル=アイゼナハ (1904年没)
同じ地域に関係する人物
- フィリップ・マインレンダー (1876年没)
- アルベルト・シュペーア・ジュニア (2017年没)
- ハインリヒ・ションブルク (1965年没)
- ゲオルク・フレゼニウス (1866年没)
- リヒャルト・シルマン (1961年没)