伝記
第2代グレイ伯爵チャールズ・グレイは、1764年3月13日、陸軍将校チャールズ・グレイ(のちの初代グレイ伯爵)の息子としてノーサンバーランドに生まれたイギリスの政治家である。生家は名家として知られた。イートン・カレッジを経てケンブリッジ大学トリニティ・カレッジで学び、卒業後はミドル・テンプルで学び、王弟カンバーランド公の侍従を務めたほか、ヨーロッパ大陸を旅行した。
1786年にホイッグ党候補として庶民院議員に当選し、改革派のチャールズ・ジェームズ・フォックスの派閥に属した。フォックス派の有望な若手として早くから指導的地位に昇った。フランス革命の影響で改革要求が高まると、ホイッグ党内は弾圧を唱えるバーク派と、ある程度の妥協を認めるフォックス派に割れた。1792年4月、グレイは他のフォックス派議員27人とともに「国民の友協会」を結成した。選挙の自由と国民のより平等な代表の回復を掲げ、国民が共和政革命に走るのを防ぐことを狙いとした団体であったが、政府の弾圧を受け、創設から2年後に解散した。それでも1793年と1795年に議会改革動議を提出したが、否決された。1806年にホイッグ党とトーリー党の大連立であるグレンヴィル男爵内閣が成立すると、グレイは入閣し、同年9月に死去したフォックスの後任として外務大臣となった。外相として奴隷貿易の廃止を実現した一方、カトリック解放を訴えて国王ジョージ3世との対立を深め、内閣は1807年3月に総辞職に追い込まれた。同年11月に父が死去して伯爵位を継ぎ、貴族院に移った。
フォックスの死後も、フォックス派はグレイを中心に結束を保った。しかしホイッグ党は国王ジョージ4世に嫌われ、1830年まで長く野党に置かれた。この時期のグレイは、ノーサンバーランドでの田園生活を好んだという。それでも改革を求める機運は議会内でも高まった。1828年に成立したウェリントン公爵内閣がカトリック解放や選挙法改正をめぐって分裂すると、グレイはその実現を目標に掲げてホイッグ党内の諸派閥をまとめた。1830年に友人のウィリアム4世が即位し、同年11月、王室費に関する政府法案への反対動議が233対204で可決されてウェリントン内閣は総辞職した。11月22日、グレイは国王の命を受け、ホイッグ党、カニング派、ウルトラ・トーリーによる連立内閣を組織した。
最大の課題は第一次選挙法改正であった。法案は1831年3月に提出され、有権者を約45万人増やし、人口2,000人以下の都市の選挙権を剥奪して腐敗選挙区を抑えることを内容としていた。庶民院の第一読会はわずか1票差で通過し、グレイは4月に庶民院を解散した。総選挙でホイッグ党が大勝したが、貴族院のトーリー党は抵抗を続けた。グレイは三度目の法案提出を行い、新貴族の創出を国王に上奏した。国王は当初反対しつつ必要な限りの創出を内諾したが、グレイが50人の創出を求めると拒み、グレイ内閣は総辞職の手続きをとった。しかしウェリントンを後任とすることに国民の憤激が強く、国王はグレイを呼び戻して新貴族創出を認めた。ついにトーリー党が抵抗を諦め、1832年6月4日に法案は成立した。内閣はさらに救貧法の改正にも取り組み、1834年に院外救済を廃止して救貧院に一本化したが、労働者の強い反発を招いた。都市自治体改革の法は、退任後の1835年に成立した。外交では外相パーマストン子爵とともにベルギー独立を実現させた。しかし政権内部の亀裂により、グレイは1834年に辞職し、メルバーン子爵に首相の座を譲った。1845年7月17日に死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ジャン=ドミニク・カッシーニ (1845年没)
- ルスタム・レザ (1845年没)
- ニコラ=トゥサン・シャルレ (1845年没)
- ブラウリオ・カリーリョ (1845年没)
- マトヴェイ・ゲデンシュトロム (1845年没)
同じ地域に関係する人物
- プリドー・ジョン・セルビー (1867年没)
- ヘンリー・ボーフォート (第3代サマセット公) (1464年没)
- ウィリアム・スミス (船乗り) (1847年没)
- ウィリアム・アームストロング (初代アームストロング男爵) (1900年没)
- ダンカン2世 (スコットランド王) (1094年没)