伝記
アデライデ・フォン・ラインフェルデンは、一〇六〇年代に生まれ、ハンガリー王ラースロー一世の妃となった女性である。シュヴァーベンのアデライデとも呼ばれる。父はシュヴァーベン公ルドルフ・フォン・ラインフェルデン、母はその二番目の妻アデライデ・ディ・サヴォイアであった。生年は一〇六五年ごろともされる。母の姉妹ベルタはドイツ王ハインリヒ四世の妻であり、アデライデは王と姻戚関係にあった。一方、父ルドルフは、のちにハインリヒ四世と王位を争う対立王となった。兄弟にはベルトルトがいる。
一〇七七年または翌年ごろ、アールパード家のラースロー一世と結婚し、ハンガリー王妃となった。夫はこの結婚に伴い、ハインリヒ四世との戦いで父ルドルフを支援することに同意した。叙任権をめぐる教皇とドイツ王の争いの中で、ハンガリー王はルドルフや教皇と結び付いた。一〇七九年には母が死去した。母の葬儀が行われたザンクト・ブラジエン修道院に、アデライデは聖十字架の断片を寄進したとされる。この聖遺物をもたらす際、自らも同じ修道院に葬られることを望んだという。翌一〇八〇年には父もエルスターの戦いで受けた傷がもとで死去し、両親を相次いで失った。
一〇八一年、教皇グレゴリウス七世はアデライデに手紙を送った。そこでは王妃が夫に働きかけて修道院を支援させ、貧しい者や弱い立場の者に寛大にするよう促している。また、聖母マリアにならうことも求めた。夫妻に息子はなく、娘が二人いたとされる。一人はピロシュカで、のちに東ローマ皇帝ヨハネス二世の妻となり、イレーネーの名でも知られた。もう一人の娘は名が伝わらず、ヤロスラフ公と結婚したとされるが、その夫をヴォルィーニの公とする説と、トゥーロフ・ピンスクの公とする説がある。
アデライデは一〇九〇年五月に死去した。埋葬地はハンガリーのヴェスプレーム大聖堂とされ、墓石も同地に残る。一方で、希望どおりザンクト・ブラジエン修道院に葬られたとする説もある。ラースロー一世は妻の死後も五年生きたが、再婚せず、男子の継承者を残さなかった。このため、夫の死後に王位を継いだのは、兄で先王のゲーザ一世の息子カールマーンであった。
同じ年に亡くなった人物
- エクベルト2世 (マイセン辺境伯) (1090年没)
- シセルガティア (1090年没)
- ニケタス・ステタトス (1090年没)
- コンスタンス・ド・ノルマンディー (1090年没)
- アデライード・ド・ノルマンディー (1030-1090) (1090年)
同じ地域に関係する人物
該当人物はまだありません。