伝記
アブドゥルカーヒル・アル=ジュルジャーニーは、1010年頃、カスピ海に近いイラン北東部のジュルジャーンに生まれたペルシア人の学者である。スンナ派の信徒で、アラビア語の文法、言語学、修辞学を研究した。生きた時代はブワイフ朝の時期に重なり、イスラム世界の東方では、アラブ人以外の学者によるアラビア語研究も盛んであった。師は文法家アブル=フサイン・ファーリスィーで、その師の叔父であるアブー・アリー・アル=ファーリスィーの学統を受け継いだ。アブー・アリー自身は987年に没しており、ジュルジャーニーが直接教わったわけではない。
師を通じてアブー・アリーの文法学に深く親しみ、その著書『アル=イーダーフ』を研究した。やがて、この書に詳しい注釈を施した『アル=ムグニー』を著し、さらにその内容を短くまとめた『アル=ムクタサド』も作った。学問上の活動は生涯を通じて故郷ジュルジャーンを拠点とした。バグダードやニーシャープールなどの大都市へ庇護者を求めて移る道を取らず、王侯の宮廷にも属さず、教育、執筆、礼拝に専念した。その名声を慕ってイスラム世界の各地から学生が訪れ、アラビア語の師として認められるようになった。
ジュルジャーニーの研究では、文法と文学における美の問題が結び付いていた。代表的な著書は『奇跡性の証明』と『雄弁の秘密』で、前者はアラビア語で『ダラーイル・アル=イウジャーズ』、後者は『アスラール・アル=バラーガ』と呼ばれる。これらでは、優れた表現の例を集めるだけでなく、言葉が意味、美しさ、感情への働きかけを生み出す仕組みを説明しようとした。その研究では、言葉の明瞭さや雄弁さを意味するファサーハも重視した。従来の文法、言語研究、詩の伝統を踏まえて、言語の美を論じる理論を組み立てた。中心に置いた概念はナズム、すなわち語と語の統語的・意味的な配列である。表現の力は単独の語そのものから生じるのではなく、文の構造と意味が互いに関係し、調和することから生じると考えた。
この考え方は、明晰な表現を研究するバヤーン、とりわけ比喩や直喩を含む修辞の分析に関わった。修辞学を独立した理論的な学問として整える一方、文法や語形変化の研究にも取り組んだ。『百の作用因子』では、アラビア語の百の文法的な作用因子とその用法を例とともに示した。ほかに文に関する『アル=ジュマル』、韻律を扱う書、語形論の基礎を扱う著作があり、アブー・タンマーム、ブフトゥリー、ムタナッビーの詩を集めた選集も編んだ。文法においてはバスラ学派の伝統を引き継いでいた。
信仰生活では敬虔で禁欲的な人とされる。伝記家スィラフィーは、礼拝中に盗人が入り物を奪っても、ジュルジャーニーはそれを見ながら礼拝を中断しなかったという逸話を記している。1078年、故郷ジュルジャーンで没したと考えられている。後のサッカーキーやジャラールッディーン・カズウィーニーはその理論を受け継ぎ、アラビア修辞学を複数の部門を持つ体系に整えた。代表作はコーラン解釈や古典詩の分析、修辞学の教育で長く用いられ、その理論はイスラム世界の伝統的な教育機関でも教えられてきた。
同じ年に亡くなった人物
- ミカエル・プセルロス (1078年)
- イネス・デ・アキタニア (1059-1078) (1078年没)
- ピエトロ1世・ディ・サヴォイア (1078年没)
- イジャスラフ1世 (1078年没)
- ベルトルト2世 (ケルンテン公) (1078年没)