伝記
イネス・デ・アキタニアは1059年ごろ、アキテーヌ公ギヨーム8世と2番目の妃マティルドの娘として生まれた。イネス・デ・ポイトウとも呼ばれ、ポワティエ家に属した。父のもとには同じ名を持つ異母妹が複数おり、とりわけアラゴン王・ナバラ王ペドロ1世の妃となったイネスとは区別を要する。1069年、10歳ほどの時にレオン王アルフォンソ6世との婚約が整った。正式な婚姻は、14歳ほどになった1073年末か1074年初めとされる。アルフォンソの次の王妃となるコンスタンサ・デ・ボルゴーニャとは三従姉妹に当たり、いずれもアキテーヌ公ギヨーム3世の子孫であった。
婚約から結婚までの間、アルフォンソの王位は兄弟間の争いに揺れた。父フェルナンド1世の遺領が3人の王子に分けられると、アルフォンソと兄サンチョは協力して、ガリシアを治める末弟ガルシア2世をセビリアへ追放した。しかし1072年1月、今度はアルフォンソ自身がサンチョに捕らえられ、ブルゴスへの幽閉を経てトレドへ亡命した。イネスも行動を共にした可能性がある。同年後半にサンチョが暗殺されると、アルフォンソは戻って10月にレオン王として戴冠し、「全ヒスパニアの皇帝」を称した。イネスは1074年から王妃として証書に名を連ね、夫と共に特権を確認した。1076年11月17日には、2人でセプルベダの特許状を与えている。王妃としての最後の登場は1077年5月22日のアストルガで、その後は王だけが文書に現れる。
2人の間に子はなかった。婚姻が終わった事情には、イネスの死によるものと、婚姻の無効によるものとの見方がある。死去に先立つ1077年に、子がいないことを理由として婚姻が解消されたとの説もあるが、裏付けが十分でないとして否定する研究者もいる。年代記作者オルドリク・ヴィタリは、近親婚を理由として1080年に婚姻が無効となり、イネスが1109年にメーヌ伯エリー1世と再婚したと述べた。しかし、エリーと結婚したのはアルフォンソの最後の王妃で、イネスの異母妹ベアトリスであったとされる。イネスとベアトリスの事績を混同した可能性が高く、この再婚をイネスの経歴に含める説は信頼性が低い。死去を1078年から1097年の間とする説のうち、1097年の記述もペドロ1世妃である同名の異母妹を指すと考えられている。
イネスの没日は1078年6月6日とされる。この日付はサンティアゴの記録に見え、王の愛人ヒメナ・ムニョスの墓碑にも、ヒメナが寡夫となった王の友人であったと記されている。埋葬先はサアグンの修道院で、のちにアルフォンソや他の妃たちも葬られた。ただし、イネスの埋葬記念碑には時代に合わない構造や碑文の誤りがあるため、真正さを疑う見方もある。1810年の修道院火災で王の墓が壊れると、王や妃たちの遺骨は回収され、修道院内で保管された。1821年には修道士の退去に伴って箱へ移され、1835年に再び収集された。同年の修道院財産の没収時、遺骨を収めた2箱は修道士の親族に託され、隠された後、1902年に発見された。イネスの遺骨は現在、サアグンで他の王妃たちと同じ墓に納められている。
同じ年に亡くなった人物
- ピエトロ1世・ディ・サヴォイア (1078年没)
- ミカエル・プセルロス (1078年)
- ジュルジャーニー (1078年没)
- リッカルド1世・ドロゴーネ (1078年没)
- イジャスラフ1世 (1078年没)
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